本当にありがたいボランティア

ボランティアという細胞

災害が起きたとき、動き出すのは何でしょうか?

大きなものは民衆の動きです。これは国の組織ではなく国民の動きというべきでしょう。災害の前では国家組織からの支援だけでなくボランティアも動き出します。彼らは協調するのです。災害にあった人たちを助けるだけでなく気持ちを和ませます。

国の組織も民衆もすべてボランティアの意思があります。

それだけではなく現代では情報伝達が速いので世界からも援助やボランティアが動き出します。本当にありがたいことです。

災害で苦しんでいる人々、お亡くなりになった方々、行方不明の人々、災害にはたくさんの不幸が生まれます。

私たち日本は災害の多い国です。

しかし災害にあった人々も支援もあり次第に心を落ち着かせていくことでしょう。

では病気になったときはどうでしょうか?

人生で危機に陥ったときはどうでしょうか?

お医者さんやカウンセラーや相談所に相談することでしょう。

でも考えてください。病気のときには体の中で組織的に体を守ろうとしているのです。

しかしそれでも病気になってしまいました。

おそらく大変な努力で、まるでボランティア的に助けていることに変わりはありません。

本当にありがたいことです。

そのような身体内部の働きにあなた自身はどう思いますか?

世の中の苦しんでいる人や池江璃花子さんへ


2019年2月12日にTwitterで白血病であることを明かし、治療に専念しているという水泳選手の池江璃花子さん。

その翌日には「今は、完治を目指し、焦らず、周りの方々に支えて頂きながら戦っていきたいと思います」と病気と戦うことをあらためて告げていました。、、、、

というニュースを見ました。

もし可能ならば私のブログを見ていただければと思いますが、もし読まれたならば、

ご理解いただければと思います。

まず病気と闘うという思いはやめたほうがいいのではないでしょうか?

病院で治療をすることは大事なことです。

負けたくないというお気持ちはわかります。

しかしこの機会に大事なことを気づいてほしいと思います。

私から言えば、病が生じたのは因果関係の結果で池江さんの肉体に生じています。

ですので自分の体に生じた病気に対して敵という観念はやめたほうがいいのです。

理屈的にもう少し詳しく説明することもできますが、要は自分の体にできた病気というものは、因果関係があり、すでに自分の体内に存在していますので、内部に存在する敵と戦おうということになります。

それまで内在はしていたけれど表面化してきて活動盛んにしようとしている存在に対して勝利しようというお考えよりもまずその現況を受諾することから始めるのです。

治療もクスリなどを使用することでしょう。

その薬や治療方法に効果があるかもしれません。

しかし全面的にそうとは言えないこともありえることでしょう。

そうとうしんどいことがありえます。

いつか耐えきれないかもしれない。

戦うということは負けることもあるかもしれない。そうすると不安がよぎってくるのです。

ではどうすればいいでしょうか?

一例で申し上げれば、インドのガンジーの言動を参考にしていただきたいと思います。

ガンジーは当時のインドの悪徳側からの圧力や暴力に対してどのように対処したでしょうか?

そうです。非暴力です。

ガンジーのそのような根気はどうして続けることができたのでしょうか?

現実を受諾し、客観的冷静な目で本質を見据えながら行動していたのです。

そしてその結果、民衆だけでなく世界の民衆をも味方にしたのです。

そうしていくうちに悪徳側のほうから崩れていったのです。

病気の時は、安静と食事がまず第一。

周りの人たちへの気を全く使わないことです。

また周りの人たちは病人に気を使わせないように努めなければなりません。

そして自分の信じている医者や治療方法にのっとります。

いろいろな薬を続けるのは要注意です。

自分なりにネットで調べることができます。

できるだけ自然な物を活用することをお勧めします。

一方の心の持ち方を変えます。

方法はいろいろとありますが、単刀直入に言えば心の力を信じることです。

ですので自分との戦いということはあるでしょうが、病気と戦うということではないのです。

癌でもそうですが、その組織と戦って勝ちたいというよりも癌と共存していくうちにいつしか、がんがいなくなっていったというイメージなのです。

古道的には「戦わずにして勝つ」ということもあります。

どうか世の苦しんでいる人たちや池江さんにも届きますように。

心の奥への旅していくとあなたの本当の姿が見えてくる

「無」というものと内観の秘法は繋がっていると思いますが、どういうことでしょうか?

共通するのは、集中していくうちに心の奥へと進んでいくことでしょう。

はたして心の奥にあるものは。

見性悟道を私たちはできるのか?

無とはどういうことなのでしょうか?

こんなに忙しく生活しているのに「無」なんてなんなんだ。

私たちの生活しているのに「無」なんて関係ないだろう。と思えます。

生きることの苦しみを抱えている人もいるかと思います。

もしかするともっと深刻な人もいるかもしれません。

どうぞその前に私の話を聞いてみてください。

1836年生まれの武士である山岡鉄舟は江戸に生まれます。

サムライの鉄舟は9歳にして撃剣の道を志し、13歳のころより禅学を好んだようです。

書は幼年のころより学んでいます。

鉄舟が幼年のころからのことを記しているなかで、私がとても重要だと思われたのは

①父母からの話。

②山岡静山との出会い。

③浅利又七郎との出会い。

④各和尚との出会い。特に滴水和尚です。

⑤さらにたくさんの出会いがあるので、機会があれば、いつか記するつもりです。

鉄舟は剣の道の極致を求め13歳のころより禅に参じます。

禅の公案である「本来無一物」とか「無」とか十年以上ときをかけていますが、鉄舟はなかなか釈然としません。

禅学は武州柴村長徳寺の願翁、豆州沢地村龍沢寺の星定和尚、京都相国寺の獨園和尚、相州鎌倉円覚寺の洪川和尚、京都嵯峨天竜寺の滴水和尚に参じ最終的に滴水和尚の印可を得ました。

やはり先生を求めたのです。

浅利又七郎という人との試合では、「果たして世上流行するところの剣術とは大いにその趣を異にするものあり。

外柔にして内剛なり。

精神を呼吸に凝し、勝機を未撃に知る。

真に明眼の達人というべし」と語っていて、あたかも山に対するがごときで浅利に勝つ方法が見当たらないというのです。

真剣勝負ではどちらかが死ぬ可能性が高いのです。

ここに鉄舟が目指していた剣の道の本筋が見えてきます。

よくよく読むと現代の私たちの勝ち負けのスポーツや生活の態度や味方とは全く違う領域を目指していることに驚くのです。

武士という自分の立場でその剣の道の極致を感得したい。

そのためには自分の心の極致はどういうことなのかを感得する必要があることに至ります。
そこで鉄舟はそのために禅理を求めます。

そして剣法と禅理とを合わせ、それは帰一であると言っています。

しかし大悟する前は、何をしてもどうしても浅利に勝つ方法がわからないのです。

浅利は一つの大きな山のように鉄舟には感じられます。

勝負に勝つとか負けというだけのことではありません。
自分と浅利の真剣勝負においては、どうしても勝つことができない。

心の在り方はどうしたらいいのか、いくら模索してもわからない。

なんとかして心の作用やその根源を感得したいという問題にぶち当たっています。

そのために自分と天の領域の極致を求め修行しているという驚くべ人物の姿が浮きあがってくるのです。

ここに鉄舟の懐の深さと非凡なところがあるのではないでしょうか?

私は東京の谷中の全生庵で「鉄舟居士の真面目」という本を購入して読んでみると鉄舟の眼のつけ方が私たちとはまったく違うことに気づきました。

その鉄舟が、滴水和尚から、

「両刃鉾を交えて避くるをもちいず

 好手還りて火裏の蓮に同じ

 宛然自ずから衝天の気あり」

を与えられます。

鉄舟はこの句に非常に興味深く感じました。

すくなくとも「無」より具体的なヒントのように感じます。

鉄舟は喜び勇んで、この公案をどこでも毎日、考究し続けます。

しかしそれでもなかなかわからない。

そこに先に記した平沼専蔵(横浜銀行創業者)の話になるのです。

ある日、平沼専蔵が鉄舟のもとに訪れ、専蔵が自分の仕事の話をします。鉄舟は聞くともなしに聞いていました。

ところがそのどこかが、鉄舟の心の琴線にひっかかるものがあったのです。

鉄舟はその日以降、いつものように毎日、座禅をします。

そしてついに明治13年3月29日の夜から天地万物、無きの心境に達し、翌30日の夜明け、ふと我に返ったのでした。そのとき45歳でした。

鉄舟は、そのとき、いままでとは全く違う自分を感じます。大悟をしたのです。

鉄舟はすぐに弟子を呼び寄せ、試してみました。

弟子は鉄舟の前で立ち会いますが、目の前の鉄舟に「こんなことが人にできることなのか。

先生の前に立っていられません」と不可思議な状況を鉄舟に伝えます。

心や気はなんと不思議なものなのでしょうか?

鉄舟によればそのあとの自分の剣や禅だけではなく書もがらりと変わったそうです。

真の武士道も完成されていたのです。

ですので「無」というのは何もないということではありません。

私のような愚鈍の者は、いつも雑念から始まるものです。

しかし座禅をしていくといままでとは違う心境になってくることがあります。

でも座禅という形にこだわることはありません。

体が動かず寝たきりや病気の人でもできる有益な方法があるのです。

どちらにしても雑念から集中へを続けていくと無意識的な心の動きが訪れてきます。

いつしかふと我に返るとき、心持の良さが感じられます。

「雑念」から「無へ」の世界が深くなればなるほど心のすばらしさを感じられるものと思います。

ここに白隠の内観の秘法に通じるものが隠されているのです。

つまり「無」というものと内観の秘法は繋がっているのです。

禅の公案と内観の秘法の秘密

白隠の夜船閑話に記述されている内観の秘法は病気で苦しんでいる人々に非常に効果があります。

なぜでしょうか?

この秘密を探るのには言葉の解釈だけでは解けません。

まず体験をしなければなりません。

禅の公案である、たとえば「無」はよく聞く言葉です。

私はこの「無」を見て、最初、何のことかわからないし、何をいいたいのかわからなかった。

「さっぱりわからない、何も無いということをいいたいのだろうか?」くらいの認識だったのです。

ところが、「禅の公案はその言わんとするところを心で探って自分なりの答えを出せ。

この公案の言葉からヒントを探り、感得し答えを出して、迫りくる身近な生活の問題を解決していけ、人生の苦難を乗り越えろ」というふうに聞こえてくるのです。

禅の考案を作った人は特に優しい人だと思います。

人生の意味をなんとか感得してほしいという願いが込められているのです。

なぜならば自分で感得しないと本当に自分の身にならない。

よく昔の職人が部下に対して仕事の説明をよくせず、「俺がやっていることを見て盗め」とよく言っていたものです。

結果は見せているのです。

今時そんなことをいう人はあまり見かけなくなりました。

マニュアルがあります。

マニュアルで解決しようとしています。

一見、わかりやすく優しい解決方法に見えます。

本当でしょうか?

私からすれば考える力を省いています。

現代人は「その仕事の中身の説明文や説明を詳しくしてくれればわかりやすいじゃないか」とつい考えてしまいます。

しかし高い技を身に着けた職人は、部下が将来、伸びるためには、そういうことをしたらその人の将来のためにならない。

身にならない。力がつかない。

なんの世界でも目指していくところが高いほど、将来、難しいところが出てくる。

出てきたら、それを解決していかなければ先へ進めない。

その解決力を身に着けさせるためには、師匠や職人が弟子や部下に答えを簡単に教えては、弟子や部下は大事な解決力を身に着けようとする力やきっかけを見つける習慣ができないのです。

結果はすでに見せているわけです。

その答えを言葉で言うのは簡単だけれどもわざと答えを言わないのです。

そのかわりにヒントを言うのです。

高僧が禅の公案を提示するとき、その人の抱えている問題を解決するためにヒントを出しますがそれが公案です。

ですのでマニュアルはヒントだととらえましょう。

もしも偽りならば、この老僧の首を切りとって持ち去るがよい

白隠禅師自らの苦難の体験から生まれた「夜船閑話」と「遠羅天釜」は禅関連だけでなく心と体の養生や長寿、また鍛錬の書として注目すべきものだと思います。

病床で不安な日々を過ごしている人や自分の性格に悩み、苦しんでいる人にはとても良い方法です。

真剣に行えば行うほど心と体と天界とのつながりを通じて、心を癒し、体を変えていくことを感じることができるでしょう。

白隠は述べています。

「、、、この秘法を実習しようとするときには、すべからく人間世界の思い煩いや工夫をすて、小智才覚の一切を放下し、考えること、見ること、聞くこと、話すこと、感ずることなど一切の雑念を心の外部への活動を追い払ってしまい、空っぽになってこの「内観の秘法」を行い、深く眠り込み、そのあとで肉体の目とともに心の目を覚ますというようでなければならない。すなわち、床に入り眠りに入る前に両脚を長く踏みそろえ、一身の元気をへそのまわりから気海丹田、腰、股や両脚から足の裏に下し充して、次のように何回も繰り返し繰り返し内観するものである」

①わがこの気海丹田腰脚足心、まさに是れ、わが本来の面目、面目なんの鼻孔かある。

②わがこの気海丹田、まさに是れわが本分の家郷、家郷なんの消息かある。

③わがこの気海丹田、まさに是れわが唯心の浄土、浄土なんの荘厳かある。

④わがこの気海丹田、まさに是れわが己身の弥陀、弥陀なんの法をか説く。

このようになんどもなんども打ち返し、繰り返し、想像し、観念し、想像力を集中するがよい。

観念想像力構造の効果が積もってあらわれてきたならば、一身の元気はいつしか、腰や脚部や足の裏に充ち満ちて下腹部の丹田はひょうたんのように固くなってくるのである。

このように「内観の秘法」を一心に真剣に切に修するときは、ニ、三週間にしていままでの苦悩、不快、神経衰弱、心臓病、肺病などあらゆる難治の病の症状が底を払ったように全治するものである。

もしも偽りならば、この老僧の首を切りとって持ち去るがよい」と。

生命とは

白隠は自らの病を治したことで、後世の人々のためにさまざまな精神的および肉体的な病を治せるように「夜船閑話」と「遠羅天釜」という素晴らしい書を残してくれました。

私はこれらは人間のイメージ力と仏心および願いなどを活用することで自然界のシステムの一部である私たちがこの世に生まれ生きている意味と使命を悟るところに肝があると考えました。

これをもって自分を変え、まわりを変えて優しい平和な市民生活へと導きたいと思います。

皆さん、いかがですか?


病気や悩みを克服する方法

私たちが病気や生活の悩みに苦

しむとき、静かに考えてみれば

気づくことがいくつかあります。

大きな意味でいえば、因果応報

ということでしょう。

病気になるのはその原因がある

ことは誰でも想像がつきます。

治したい一心で医者に行く。

たいがい解決がつくことでしょう。

ところが詳細がわからないとか医者も

匙を投げることがあります。あるいは

余命を告げられるかもしれない。

それでは生活の悩みや苦しみのほうは

どうでしょうか?

なかには「悪い奴の中には金持ちにな

って、悩みもなく幸せそうに楽しそうに

しているじゃないか?そんな奴らが病気

になってもお金の力で不自由なく人生の

問題も病気の治療もできるから、悪どい

方法でも金持ちになったほうが勝ちだ」

という人もいます。

しかし静かに考えてみてください。

やはりすべてが因果応報から逃れられ

ないことに気づきます。

確かにお金は大事です。

生活に十分なお金があれば安心です。

ですので稼ぐことは大事です。

ただあくどい方法で稼ぐのは、お金が

貯まってエンジョイしているように見え

ても自分の心のどこかで幸せになれてい

ない自分を知っているのです。

むしろ運命は苦しみにつながっていく。

病気の場合も原因結果があるのです。

ですのでその現在の自分の状態をまず

見つめること。

そこからはじめるのです。

取り返しのないところまでいっていると言

われてもくよくよすることはありません。

大丈夫。

あなたには自分の本当の心の力がわかっ

ていないだけなのですから。

自分の本心から悟らせるには

衆生本来仏なり から始まる

白隠の座禅和讃はできるだけ

わかりやすく人生という意味を

説いているように思います。

読めば読むほど深い意味あいを感じます。

たくさんの哲学書を重ねて研究してもこういう

文章は作れないかもしれません。

人は神とか仏とか、外に崇める対象を想像した

り形作ったりします。

しかし白隠は万物および人間そのものに仏性が

あるというだけでなく仏であると言い切ってい

るのです。また神や仏も否定してはいません。

座禅和讃自体が白隠が私たちに提示している

禅の公案だと感じています。

ですので座禅和讃には人生の深い意味を私たち

に悟らせるための秘密の鍵が隠されています。