白隠の夜船閑話に記述されている内観の秘法は病気で苦しんでいる人々に非常に効果があります。
なぜでしょうか?
この秘密を探るのには言葉の解釈だけでは解けません。
まず体験をしなければなりません。
禅の公案である、たとえば「無」はよく聞く言葉です。
私はこの「無」を見て、最初、何のことかわからないし、何をいいたいのかわからなかった。
「さっぱりわからない、何も無いということをいいたいのだろうか?」くらいの認識だったのです。
ところが、「禅の公案はその言わんとするところを心で探って自分なりの答えを出せ。
この公案の言葉からヒントを探り、感得し答えを出して、迫りくる身近な生活の問題を解決していけ、人生の苦難を乗り越えろ」というふうに聞こえてくるのです。
禅の考案を作った人は特に優しい人だと思います。
人生の意味をなんとか感得してほしいという願いが込められているのです。
なぜならば自分で感得しないと本当に自分の身にならない。
よく昔の職人が部下に対して仕事の説明をよくせず、「俺がやっていることを見て盗め」とよく言っていたものです。
結果は見せているのです。
今時そんなことをいう人はあまり見かけなくなりました。
マニュアルがあります。
マニュアルで解決しようとしています。
一見、わかりやすく優しい解決方法に見えます。
本当でしょうか?
私からすれば考える力を省いています。
現代人は「その仕事の中身の説明文や説明を詳しくしてくれればわかりやすいじゃないか」とつい考えてしまいます。
しかし高い技を身に着けた職人は、部下が将来、伸びるためには、そういうことをしたらその人の将来のためにならない。
身にならない。力がつかない。
なんの世界でも目指していくところが高いほど、将来、難しいところが出てくる。
出てきたら、それを解決していかなければ先へ進めない。
その解決力を身に着けさせるためには、師匠や職人が弟子や部下に答えを簡単に教えては、弟子や部下は大事な解決力を身に着けようとする力やきっかけを見つける習慣ができないのです。
結果はすでに見せているわけです。
その答えを言葉で言うのは簡単だけれどもわざと答えを言わないのです。
そのかわりにヒントを言うのです。
高僧が禅の公案を提示するとき、その人の抱えている問題を解決するためにヒントを出しますがそれが公案です。
ですのでマニュアルはヒントだととらえましょう。