病気で苦しんでいる人へ
肉体の苦しみはとてもつらいもの
です。
苦しいのですが、それには因果があり、
意味があります。
そこに真剣に向き合えばあうほど
あなたなりの答えが出てくること
でしょう。
病気で苦しんでいる人へ
肉体の苦しみはとてもつらいもの
です。
苦しいのですが、それには因果があり、
意味があります。
そこに真剣に向き合えばあうほど
あなたなりの答えが出てくること
でしょう。
( Samurai Road )
衆生本来仏なり から始まる
白隠の座禅和讃はできるだけ
わかりやすく人生という意味を
説いているように思います。
読めば読むほど深い意味あいを感じます。
たくさんの哲学書を重ねて研究してもこういう
文章は作れないかもしれません。
人は神とか仏とか、外に崇める対象を想像した
り形作ったりします。
しかし白隠は万物および人間そのものに仏性が
あるというだけでなく仏であると言い切ってい
るのです。また神や仏も否定してはいません。
座禅和讃自体が白隠が私たちに提示している
禅の公案だと感じています。
ですので座禅和讃には人生の深い意味を私たち
に悟らせるための秘密の鍵が隠されています。
( Samurai Road )
衆生本来仏なり
(私たちは本来仏なのです)
水と氷の如くにて
(水と氷の如くのように)
水をはなれて氷なく
(水を離れて氷というものはなく)
衆生の外に仏なし
(私たちの外に仏はありません)
衆生近くを不知して
(私たちは本当の自分自身の仏心を知らないで)
遠く求めるはかなさよ
(遠くに仏心を求めやすく、これは悲しむべきことです)
たとえば水の中に居て
(たとえば水の中にいて)
渇を叫ぶがごときなり
(のどの渇きを叫んでいるようなものです)
長者の家の子となりて
(財産家の家に生まれて)
貧里に迷ふに異ならず
(貧しいところにいるのではないかと迷っているようなものです)
六種輪廻の因縁は
(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道の生まれの因縁は)
己が愚痴の闇路なり
(己の迷いの闇路の結果です)
闇路にやみじを踏みそえて
(闇路にやみじを乗り越えて)
いつか生死をはなるべき
(いつか生死を超えるべきです)
夫れ摩訶衍の禅定は
(自利利他の静思使命とするところは)
称歎するに余りあり
(賞嘆以上のものがあります)
布施や持戒の諸波羅密
(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧などの志)
念仏懺悔修行等
(念仏懺悔修行など)
其品多き緒善行
(その多きもろもろの善行)
皆この中に帰するなり
(皆この中に帰結するのです)
一座の功をなす人も
(静慮して会得する人も)
積し無量の罪ほろぶ
(いままで積んできた罪が滅んでくるのです)
悪趣いづくにありぬべき
(悪趣はいづくにあるべきでしょうか)
浄土即ち遠からず
(浄土楽園は遠くにはないのです)
辱くも此の法を
(ありがたきこの法を)
一たび耳にふるる時
(ひとたび耳にするとき)
さんたん随喜する人は
(心からたいへん喜ぶ人は)
福を得る事限りなし
(福を得る事が限りないようになります)
いわんや自ら回向して
(いわんや自らを真摯に振り返って)
直に自性を証すれば
(自性を明らかにすることができれば)
自性即ち無性にて
(自性はすなわち無性です)
すでに戯論を離れたり
(すでにいたずらな議論から離れているのです)
因果一如の門ひらけ
(因果は一如であることから始めなさい)
無二無三の道直し
(無二無三の道を直していく)
無相の相を相として
(宇宙万物の実相は無相の相で
あり)
行くも帰りも余所ならず
(迷うことなく答えは自分にあるのです)
無念の念を念として
(雑念を払い去った無念を念として)
謡ふも舞ふも法の声
(謡うも舞うも法の声となります)
三昧無碍の空ひろく
(正定静寂心身一如の世界は広がっており)
四智円明の月さえん
(心の奥深い世界に四智である大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智がさえわたることでしょう)
此時何をか求むべき
(このとき何を求めるべきでしょうか)
寂滅現前するゆえに
(迷いがすべて消えさり涅槃が現れるゆえに)
当所即ち蓮華国
(ここが即ち蓮華国であり)
此身即ち仏なり
(この身即ち仏なのです)
( Samurai Road )
日本にも多くの偉人が存在しました。
江戸時代にお生まれの白隠禅師という方を紹介します。
もう多くの方はご存知でしょう。
ノイローゼや不治と思われたさまざまな重病人自身が自らの生命力で治すことができることを勧めた方です。
それだけではなく日本の禅宗の中興の祖といわれる人です。
ここに白隠禅師の文言の重要なものから一言を記しておきます。
「衆生本来仏なり、」の出だしから始まります。
誰でもみんな「仏心がある」と言い切っています。
私の大好きな言葉です。
( Samurai Road )
女子テニスの大阪なおみ選手が先日、全豪オープンで優勝しましたが、このときの彼女の態度や顔の表情は淡々としていました。私はこれを見て彼女は優勝するだろうと思ったものです。一打一打の勝ち負けに喜怒哀楽を感じずにヒョウヒョウとテニスの試合を行っているように見えました。おそらく途中から気持ちよくテニスができていたのだと思います。何事も物事に打ち込むときはそういうふうになれればいいと思います。
私たちは誰でも心が動揺すれば物事がよく見えず判断に誤りやすくなります。
仕事の時も勉強の時もいろいろな場面で動揺や不安や激情が交錯し広がりやすいのですが、それではいい仕事や勉強ができないと思います。
ではどうすればいいというのでしょうか?
先に私は平沼専蔵や高橋尚子さんの話を書きましたが参考にしてください。
もう一つは、江戸時代に白隠禅師という500年に一人と言われた、たいへんな方がおられました。この方の言葉に
「己が心の喜怒哀楽、起こる源是れ何ぞ、眼耳鼻舌身使う主」「寝惚之眼覚」
やはりすごい。
( Samurai Road )
このままずっと走り続けたい
シドニーオリンピックのマラソンの優勝者、高橋尚子さんの言葉です。
私はこのときをテレビで見ていて、たんたんと走っていた高橋選手が競技場のラストのテープを切った後のコメントで「気持ちよかった」というような内容だったのを聞いて「う~ん」と考えさせられました。
マラソンや他の肉体の限界に近い力がいる激しい競技などでは、やはり肉体のエネルギーが最大限に使われます。だから競技者はしんどいのが普通でしょう。
しかしこのときのマラソンで高橋さんの心の中では「このままずっと走り続けたい」という思うくらい楽しかったというです。
私も幼い時に「楽しい」という気持ちではありませんが、疲れを感じないで走り続けたことがあったのを思い出しました。
ここらへんに心のあり方や使い方のヒントがあるのです。
( Samurai Road )
人は自分を知り、自分磨きのためにこの世に生まれてきたのだと思います。
そして人のために何ができるのかなのだと思っています。
( Samurai Road )
人生の意味と人類の将来は明るい。
しかしあまりにもテーマが大きすぎて考察に及ぶことではないと思っていましたが、そうではないと思っています。偉そうにいいたくはないのですが、実は共通する柱みたいなものがあるのです。
人生の意味は自分磨きの旅みたいなものです。
人は人を恋しがり生存のためにも人々が集まります。人が多くなってくると村や町を形作り民族の歴史が始まります。いいことだけではなく、グループ内でときにいざこざがはじまります。ところがこのごたごたがややこしい。いつかはいざこざが大きくなってくることがあり、ついには紛争や戦争まで人類はやらかしてしまうことがあるのです。紛争も戦争も始まりはいつも一部の人たちのいざこざから始まります。ところが一部の人たちの特に利害関係のあるいざこざが意図をもって組織づくって拡大させる方向に向かわせることがあります。まわりのあまり関係ない人間までも巻き込もうとしていくのです。国民まで巻き込もう、同調させようとするのです。ここに戦争の始まりの原型があるように考えています。
誰も自分が死ぬ恐れがあったり他人を殺そうなんてしたくもないのに激情が勝っている利害関係のある少数の人たちの思惑に乗せられて民族や国民が巻き込まれて戦争まで始めてしまうのです。いままで関係のなかった人たちまで巻き込まれていざこざが大きくなってあおられて戦争は嫌いなのに国民はいつのまにか巻き込まれて人殺しをしてしまう状況になっていく。
これが他からの紛争や戦争をしかけられたので防御するために闘うことはならば納得がいく話です。
しかし普通の戦争は違う。激情がかさなった利害関係のある少数の人たちのいざこざから始まった騒ぎが民族や平和な国民まで巻き込もうと意図して大きくなってしまっただけのことだったのです。戦争するぐらいなら耐え忍ぶことはできたはずなのです。
ふつうは誰でも人殺しなんかしたくない。
せっかくの人生の自分磨きの旅に出てきた人たちが戦争で人殺しまでして終わることもあるんですから罪なことです。
しかし戦争をしていても始まりがあれば、いつか戦局が決まって終結する。いまだに長く紛争が続いているところもありますが平常に戻れば戦争に巻き込まれた人たちは目が覚めていくものです。「なんで人殺しをしてしまったんだ。戦争は絶対してはいけない」と。
人殺しと戦争の話になってしまったけれど、人生の意味があるかぎり人類の将来はあくまでも明るいのです。平和の道しるべは人生の意味のもとにあります。
( Samurai Road )
肉体に生じている危機、治らない病。スポーツ選手が感じているどうしても打ち破れない自分の壁。どうしても許せないことや人。夫婦や家族、恋人とのギクシャク。商売のいき詰まり。仕事や勉強の挫折。いじめにあって苦しい。絶望感などなど。
人間、生活していくとなんてたくさんの問題や困難が待ち受けているのでしょう。
私ももともと心と体は弱々しかった。車や電車に乗ると必ずといっていいほど酔うのだから、ほんとに乗り物は見たくも考えたくもなかった。それに顔だけでなく成績もたいして良くなかったし、人と話することが苦手だから一人っきりの時間が多い。そのくせさみしがり屋ときてる。そんなだから幼いときから、よくいじめにあっていましたし、たくさんの問題を抱えていきてきました。あぁ、苦しかった~。
今では、これから老後や待ち受けているさまざまな病気がくることでしょうし、その先には死も待っている。
しかし大丈夫。日本人には人生の困難を打ち破る秘法が伝わっています。
人は神や仏は崇めるけれども日本では人間には本来仏心が宿っているという考え方があります。それがためか日本人にはとても優しい感性が宿っています。
悪い要素の多い人も善の要素がたくさんある人もいろいろありますが、その良い悪いの要素の内容は感性次第で常に変化していくのでしょう。いつまでも悪い人ばかりではないのです。誰でもいつかは現実を見つめ自分の仏心の糧とすることでしょう。
( Samurai Road )
幕末明治時代に京都の天龍寺の 滴水和尚が山岡鉄舟に与えた禅の公案「両刃鉾を交えて避くるをもちいず、好手還りて火裏の蓮に同じ。宛然おのずから衝天の気あり」に私も興味をそそられました。
私は幼いときの死ぬような病気のときの体験があるものだから、この「両刃鉾を交えて、、、」の禅の公案が気になってしかたがなかった。
真剣で立ち会う二人の剣士。
竹刀で打ち合うのならまだ余裕がありますが、互いに真剣で切り殺されるかわからない緊張を想像します。
相手を斬り殺さなければ、こちらが死ぬことになるかもしれません。
そんなときに人は「無」になりえるものでしょうか?
つまり、人間の最大の弱点である恐怖、鋭利な日本刀が自分に向かってくるという死の恐怖に対してどう対処するかにかかっているのです。
これさえ解決できれば、人生に不安はなくなるでしょう。
これが禅の公案です。