一飯の恩義と報恩


7月19日、夏の強い日差しの中、当時、学生だった私は全生庵の門をくぐりました。
たくさんの蝉の鳴き声が聞こえておりました。
東京の谷中にあるこの全生庵は、山岡鉄舟が1883年、幕末明治維新の国事に殉じた人々の菩提を弔うために建立した寺です。

座禅のできる本堂があります。
私は「武士道」という本で、山岡鉄舟(1836年~1888年)のことを知りました。
山岡鉄舟は1888年7月19日に座禅をしたまま亡くなりました。
鉄舟の残した記述文書類は簡潔。
しかしその深みは海のようでも広がりは天空のようにも感じられます。
調べれば調べるほど驚きの人物です。

まるで日々が命がけとでもいうような生き方をされていたと私には感じられます。
私は敬愛の念がおさまらず、山岡鉄舟の命日にお墓のある全生庵を訪れたのです。
私は日本酒の小瓶をいくつか入れた白いビニールを手にしていました。
お酒の好きだった山岡鉄舟の墓前に持ってきた日本酒を差し上げ、しばし茫然としておりました。

関係する他のお墓にもお参りをした後、本堂横にある事務所のほうに行ってみました。
その日は山岡鉄舟の命日でしたので催し物があるかなと思ったのです。

何か奥の方でやっているようです。
靴を脱いで奥の方に歩いて行くと広い畳の座敷がありました。
そこには背広姿やお坊さんたち(招待客20人以上だったと思います)が、談笑しながらお膳を前にして食事をされていました。
私はもちろん招待はされておりませんでしたし、知り合いがいるはずもありません。
すぐに帰ろうかと思いました。
しかし恥ずかしがりやだったはずの私が、その日だけは違っていたようです。
なんと私は空いている下座のほうに座ってしまったのです。
その広い座敷の上座の方の席には、テレビなどで見覚えのある政治家で、のちに首相になる中曽根康弘氏もお坊さんたちと談笑していました。
私は確かに居心地悪さを感じてはいました。
ところが、私は座っただけでなく目の前に置いてあるお膳の食事を食べ始めてしまったのです。
私のそんな様子にまわりの誰かが気づいていたはずです。
でも誰も私を咎めようとしませんでしたし尋ねようともしませんでした。
そんな私をまわりの誰もが黙って見守ってくれていたのだと思います。

会食している人たちはほとんどが背広姿でしたが、私は貧乏学生らしく白っぽいシャツにジーパン姿だったのを思い出します。
私は食事を終えたあと、誰にも挨拶もせずお礼も言わないで外に出てしまいました。
今思うと恥ずかしいかぎりです。
なんとなく何かしらの不思議さを感じながら全生庵を後にしたのです。
日本の徳川幕府の時代は200年以上もの長い間、鎖国をしていました。
その徳川幕府の幕末当時の世界情勢はアフリカやアジアや多くの地域や国が欧米の人たちによって次々に植民地化されていました。
そして、とうとう日本へもアメリカの黒船が来航したり、ヨーロッパやロシアの使者などが来日してくるようになったのです。

大航海、産業革命以降、産業技術の発達した欧米諸国は、世界各国との力の格差に目をつけて、劣ると見るや、あるいは利益になると判断するやそれらの地域を侵略していったのです。これがのちのちの世界各地の紛争や後に展開する大きな戦争につながる原因の端緒でした。

大東亜戦争を始める日本人の考え方が如実に現れているのを知るには、天皇の発せられた「開戦の詔書」と「終戦の詔書」読むことでしょう。

また日本に旅行に来てくだされば、日本人が昔から和を尊び、紛争や戦争を嫌っているかなどを感じられることでしょう。
幕末期の日本人は、そんな世界情勢に危機感を持ち、武士を中心にして日本を守るべく動き出しました。
かってない激動の時代の始まりでした。
各地の下級武士が、日本を守りたい救いたいというやむにやまれぬ志を胸に生まれ育った藩から脱藩をして情報や人々の集まっている江戸や京都などへと向かったのです。
脱藩は本人だけでなく、家族も罪になることですし、秘密裏に行動しなければなりません。
しかしそれでもいつかは藩や幕府に露見してしまいます。
電車もバスも飛行機もない時代でほとんどが徒歩です。
脱藩したサムライたちは育った藩や幕府の取り締まりなどをかいくぐるしかありません。
普段、人の通らない険しい山々に分け入って身をひそめながら、ひたすら目的地に向かったのです。
彼らは日本を外国列強の侵略から守りたいという一心でした。
その後、国内の各地域で佐幕派、討幕派、攘夷派、尊王攘夷派など主張や立場の違う勢力同士の命を懸けた壮絶な闘いをしました。
そして日本人は驚くべき結果を出しました。
いままで日本の政治を行っていた徳川幕府が、その政治権力すべてを朝廷に返還したのです。

驚くべき偉大な判断です。
大政奉還です。
すると朝廷は政治権力を維新側にすべて委ねることになります。
結果的にいままでの権力側だった幕府が、すべての政治権力を維新側に譲ったことになりますから、おそらく、このような国民の意識と行動などは世界史に例のない出来事だったと思います。
大きな戦いは避けられ、最小限の流血で革命ができたのでした。
明治維新です。

日本は富国強兵を進め、国力をつけていき、欧米列国からの植民地化を防ぎました。

私は幕末維新は日本人の特徴をよく現しており、たいへん学ぶことが多いことに気づきました。
その時代に徳川幕府の幕臣であった山岡鉄舟という武士がいたのです。
私はこの人物はさらに一味違う人のように思えました。
武士であり、剣の道を志しておりましたが、その究極を究めるために禅や書を学びました。
山岡鉄舟の生き方は剣の道を修業をしているようでいて、実は求道者だったと私は直感しました。
晩年には剣の道を究め、とうとう「無敵の極所」を会得しました。
「剣法の秘は万物太極の理を極めること」だといわれました。
「万物太極の理」とは「摂理」だと私はとらえています。
「武士道」の体得者であり提唱者である山岡鉄舟の心事を折に触れて私は考察してきました。

そしてようやく私は「武士道心体法」をあみだしたのです。
これは自らの心の本源、本来の心に気づき、さまざまなことを克服していく手法です。

生老病死の苦しみ、貧困、孤独感など人生の悩みなど不安な毎日をすごしている人たちをなんとか助けたい、癒したいと思い、開発したのが、成功、幸せの手法である「武士道心体法」です。

武士道と同様に人生全般に活用するものです。

私はどちらかというと病気に縁があったのかもしれませんが、「武士道心体法」をがんを癒やす手法に活用してアドバイスをしています。

例えば、がんを徹底的に癒やすために心、身体、技を「武士道心体法的アプローチ」をします。

つまり、できるだけ薬を使わずに免疫力を高めていけばいいのです。

がんは怖くないのです。
がいし人はたとえたくさんの金銀財宝を貯蓄したとしても年を重ねるごとに醜くなり病や怪我などで死んでいくのです。

お金は必要不可欠なものでたいへん役に立つものですが、使い方によれば毒にもなります。しかもあの世には持って行けません。

家族のために残した財産はいつしか消費されてしまうものです。
また組織や国がどんな立派な改革やシステムを構築しても時と共にいつしか崩れ去る方向に向かいます。
私たちはエゴイズムや差別感が蔓延している混沌とした世の中に棲んでいて、人は困難や苦しみや悩みに遭遇してどうしたらいいのか迷っていると思います。
私は宗教者でもなく、霊能者でもなく、学者でもなく、心理学者でもありません。
むしろ幼いころからいいかげんな生き方をしていた人間でした。
コンプレックスに悩み、心だけでなく体も弱々しかったのです。
そういう自分をどうしたらいいのだろうか?という疑問から、さまざまなことを学んでいきました。
しかし宗教や哲学に関する書物、専門書やマニュアル本やたくさんの情報がありますが、それらはその場しのぎであり、土壇場の力にはならないのではないかと考えました。

一方、世の中が、安全で平和な社会を維持するには、莫大なお金がかかり続けます。またシステム構築や法律の整備などしていてもおのずと限界があります。

人は本来の心に目覚めるべきだと思います。

人々は心が変わっていくようになれば、世界の貧困も少なくなり、不条理がより改善されていき、安全で平和がおとずれてくると思いました。

次回には私の開発した「武士道心体法」を説明した「武士道心体法基本」を販売予定にしております。

その後は、「4024年、武士道心体法プラン」を発表したいと思っています。
「神道にあらず、儒道にあらず、仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら部門に於いてその其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云う」と山岡鉄舟は説明しています。

若き日の私が山岡鉄舟の建立した全生庵でお墓参りをさせていただいたあと、思いがけない一飯のお世話になったことには意味があったことに気づきました。

人のために生き、死んでいった多くの尊い魂へ報恩したいと思います。

現在および未来の人たちの苦しみや困難を解決するための一助になりつつ人生を終えたいと私は願っております。

今年の夏も私の心には、たくさんのあの蝉の声が聞こえているのです。

人生に「武士道心体法」( Bushido-Shintaiho )を活かす

私は幼いころ、自宅と学校との道をいつも下を向いて通っていました。
私は、多少の茶目っ気はあるものの、身体が小さくて、おとなしかったので、小学校のクラスメイトからの虐めに悩むことになります。
私は、いじめっ子から毎日のように密かに虐められていたのです。
しかしその日、私にとって大きな出来事が起きます。

小学校の体育の授業の時間、クラスメイトのいじめっ子3人が、いつもより私を追い詰めてきました。
その体育の授業時間が終わってクラスメイトのほとんどは次の授業のために教室に行ってしまいました。
私も教室に行けばいいものですが行けないようにいじめっ子3人に邪魔をされたのです。
体育館には誰もいなくなったのをいいことにそのいじめっ子たち3人はいつもより執拗に私に迫ってきました。
そのあまりにも執拗ないじめに悲しくなってきました。
そしてとうとう、思わず私はいじめっ子たちの中のボス的な人物の頭の部分を私の右腕で巻き込んだのです。
そして巻き込んだまま私とそのいじめっ子はともに床に倒れ込みました。
それでも私の右腕を相手の頭の部分を強く巻き込んだまま放しませんでした。
私はとにかく必死でした。
不思議なことに私たちの様子をそばで見ている他のいじめっ子2人とは、ボス的ないじめっ子を助けようとしませんでした。
私は相手の頭の部分を締め付けたまま、決して離すまい必死の形相だったと思います。
私は { 絶対、離すものか } と覚悟を決めていたのです。
頭を絞められた相手は最初の頃は私に対して「すぐに放せ」と脅す言葉を投げつけていましたが、しばらくもがいていました。

沈黙が続きます。

そして、とうとう弱音を言ってきまたのです。
「痛くてたまらん、離してくれ」と私に頼んできたのです。
私は断りました。
私は「放さない」と言い切りました。
私はそばで立って私たちの様子をじっと見ている他のいじめっ子2人は、私のその必死な様子が尋常じゃないことが分かったのかもしれません。
私たち2人の様子を窺うばかりです。
とうとう、頭の痛さに堪えきれなくなったボス的いじめっ子は「頼む、、頼むから、離してくれ、、}とこんどは何度も泣くような声を出すようになったのです。
しかし私は必死でしたし、そんな様子にまわりで見ている2人のいじめっ子は、ただただ様子をうかがうばかりです。
今思えば、すぐ近くで様子を見ているいじめっ子2人が私たちを引き離すことなんて容易なことだったと思います。
しかしそうはしなかった。
私は相手に対して「いじめをしないという約束をしなければ決して離さない}と何度も断言しました。
私に頭を締め付けられているいじめっ子は、とうとう「何でもするからとにかく離してくれ」と私に願うようになってきました。
「もう、虐めは絶対しないから、とにかくその腕を離してくれ。お願いします」と懇願する声を出してきました。
授業の間の休み時間も終わり、すでに次の授業が始まっているはずです。
私にとってそんなことはにはどうでもいい事でした。
私はその3人のいじめっ子からの長い間の虐めに苦しんでいたのですから、「そのぐらいの返答ではとても信用できないし、私は放さない」と断言しました。

「そばで見ている人も私と約束しろ。今後は絶対、私にいじめをしないことを」とさらに私は要求しました。
すると周りで立って見ていたいじめっ子も、我に返ったように「約束する。約束する。これからは、あなたにいじめはしない」と言いだしたのです。
私のほうもその頃は、腕の痛さを感じてきてはいました。
私はこの3人のいじめっ子に対して何度も約束させたうえで、ようやく相手の頭から私の腕を放しました。
それ以来、そのいじめっ子3人から私への虐めは一切なくなったのです。
なぜ大人も子供も虐めをするのか考えるようになりました。
虐めをする子供自身も大人自身もさまざまな背景や事情があるでしょうが、共通点もあるように思います。
人が人を虐めたり、差別したり、ついには暴力をふるうようになるのにはどこが鬱屈した心情が潜んでいるようにも思えます。
逆に人に優しくしたり、助けようとするのも共通点があるように思います。
これらは社会や地域、国家間にも通じる共通点が垣間見えるのです。
人にはさまざまな生きざまがあるように国や地域にも歴史があり、生活を営んでいます。
人生には生老病死やさまざまな苦難が待ち受けています。
病に苦しんでいる人たちがたくさんいます。
さまざまな人生の問題を解決する手法として私が開発して名付けたのが「武士道心体法」( Bushido-Shintaiho )というものです。
これは宗教ではなく、医学でもなく、心理学でもありません。

思想や瞑想や似たような手法はありますが、このような魂の成長に根ざした現代の自らの問題を解決するみんなのための体験的行動手法は他に見当たりません。
世界のさまざまな偉大な古から、私たちは学ぶことは大事です。
しかしながらそれらを現代の私たち個々に活かすことができなければ学んでいる価値が薄れてきます。
すべての人たちに応用できるとは思いませんが、超一流の古の考えや手法から学び、現代の平凡な私たちに活用、工夫していくことができる、より素晴らしい可能性があるのです。
例えば癌などで医者からの余命宣告を受けたとしても決して諦めることはありません。

すでに医学情報などは手軽に誰でも手に入るのです。
「武士道心体法」は心を主体として身体に活かす手法であり、問題の渦中の詳細の根本を突き詰め、自らが解決していこうとする体験的行動手法です。

究極の幸せの道を歩むための手法です。
これを世界に広めたいと思います。
心と身体か弱かった私が、人生の不安に揺らぎながら、数十年かかってとうとうこの手法を考案したことは、たいへんありがたく思っています。
あなたに伝えたいものを作ろうとしています。
多少、時間がかかるかもしれませんが、ご期待頂ければと思います。

あなたの具体的構想や技術のある方はお知らせください。

新型コロナウイルスに対処する武士道心体法の使い方

武士道心体法は生命の根源に根ざしているものですので、その活用は世事万端に及びます。

古より伝わる秘法を現代に活用したいと願い研究を続けております。
心を澄まし、息を整え、精神を集中していき、様々な、技を活用しながら、生命に潜むおおいなる力を引き出すものです。
最近の新型コロナウイルスや変異種に対して世界の人たちが困っています。
すぐにでも対応しなければ命が危ない人たちもいらっしゃるかとも思います。
医学的な研究が進んでいると聞いておりますし、それはたいへん喜ばしいと思います。
しかし、恵まれない地域の人たちや緊急の対応や手当する機会が遅くなる可能性があると思います。
ですので私の提唱する武士道心体法の活用をご案内いたします。

お金がほとんどかからないか、あるいはとても安くてすみます。
新型コロナウイルスなどでは薬などを活用することは大事だと思います。
しかし最後に助けとなるものは私たちの免疫力、生命力だと思います。
日頃より武士道心体法の練習をしていれば、生活の場でも緊急の際にも活用できることが期待できます。

いままでの暗闇の中にいる悩み大き人はぜひ、学んでいただければ幸いです。

たとえば医学的な分野でも活用できます。
私は心と身体の感性を変えていくことで人体の細胞を活性化させ、免疫力をより高くするのです。
心と身体と病は密接に関係しております。
自律神経は白血球の動きに左右され、白血球の揺れは免疫力に影響を与えています。
私は自律神経や免疫力は心と身体の手法で自律神経および白血球のバランスが良くなり、免疫力が活性化すると考えています。
武士道心体法では呼吸方法により心を落ち着かせ、心の澄まし方により精神を集中させていきます。

それらのことにより自律神経および免疫力を高めることが期待できるのです。
もし呼吸があまりできないのであれば可能の範囲でいいのです。
新型コロナウイルスは今までの免疫力では対処できないことも考えられます。
私は人体に潜む心と身体の力をいかに引き出せるかにかかっていると思い研究しています。

いままでは、ほんの一部の世界でしか知られていない心の活用方法を多くの人々に知らしめたいと思います。

自分の人生の意味と目的、それからその対処方法さえ手に入れば、より幸せな人生に変えることができると思います。
私のいままでの書をよくお読みになっていただければ概要がわかると思います。

困難や病気は人生につきものです。

しかし武士道心体法は困難や危機の際こそ、正念を守り自分を成長させるいい機会だと信じます。

この世にしかない体験や機会を活用し、魂の成長させることが衝天法の目的です。

この武士道心体法は健康のために活用できるのです。

「武士道心体法」(Bushido-shintaiho)

「武士道心体法」(Bushido-shintaiho)は心を極めていくこと、自他ともに成長することを目的としています。

たとえいくたの挫折を経験するとしてもそれらは失敗でありません。
魂に死はなく永遠の成長をしています。
偉大な宗教家たちは宇宙の原理、生命の原理を極め活用することを促しております。
しかしながら、あまりにも森厳であり、現在でも歴史上、数少ない者たちだけが会得し継承を続けているようです。
多くの人たちはその教えがわからないまま誤解をしたり、はたまた悪用したりする者もあらわれるのです。
太古から、人々が神々の教えを崇め奉るのは、その教えには真実があると自分自身にあるアンテナが受信していた証だと思うのです。
ただ自分の心のアンテナを磨いていかなければ真実なり仏心につながる「道」はなかなか見つけることはできません。
言葉や議論しているだけでは「道」から外れてしまう恐れがあります。
私が「武士道心体法」(Bushido-shintaiho)を開発したのは、誰もが仏心を感じ「道」へと促したいと思ったからです。
自らの生命の根源を極める、仏心を会得しようとするその姿勢は貴重なことです。

すぐにできることではありません。
しかし例えば泳ぎもできない人が最初から世界のトップスイマーになることはできません。
最初は体と顔を水につけ、水に慣れることから始めましょう。
しかし慣れてきたら程度の差はあれ、浮くことも覚えるし泳ぎができることでしょう。
それに泳ぐ楽しみも生まれてくるのです。
「生きる」ことを知ることは成長するための土台です。

そこに心の幸せがあるのです。

仏心と武士道と宇宙の原理

日本は一神教の国ではありません。

森羅万象にさまざまな神々を感じて生きています。

白隠禅師は
「私たちは本来「仏」です。しかしそれを知らないで遠くに求める人が多いのははかないことです。仏心は自分自身にあることに気づかなければなりません」と申されております。

人は満たされない心に惑わされている。

心を磨かないで毎日を過ごし、本当の自分というものを知らないで人生を終えているのではないかと思うのです。
私たちは自分を省みて、自分の本当の心の存在に気づくことが重要だと思います。
私は仏心と武士道と宇宙の原理(万物太極の理)には同根のものがあると考えております。
武士道は主にサムライが生死をかけた戦いの中で培われ、日本の歴史の中で醸成されていった道念です。
ここで、その武士道の体現者で提唱者の山岡鉄舟(1836年~1888年)をご紹介したいと思います。
なぜならば「万物太極の理」を会得した人物だからです。

人類にとっても明記すべき一人だと思うのです。
ですので山岡鉄舟の提唱する武士道について、記することは私の喜びです。
ただ私は山岡鉄舟を長年、研究しておりますが、武士道は非常に深遠な理です。
ですので私の理解不足などをお感じになることはあるかもしれませんが、ご了承をお願いいたします。
皆様からのご教授を賜ることがあればありがたいと思います。
なお敬称は略させていただきます。
よろしくお願いします。

山岡鉄舟によると武士道をこう説明しています。
「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。

鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあります。
そして剣法について以下のような簡潔な文章があります。
( ) 内は私の意訳ですので参考にしてください。
「夫れ、剣法正伝の真の極意者、別に法なし、
(剣法正伝の真の極意というものは別に法はありません)


敵の好む処に随いて勝を得るにあり。
(敵の好む処に随って勝を得ることなのです)

敵の好む所とは何ぞや。
(敵の好む処とはなんでしょうか?)

両刃相対すれば必ず敵を打たんと思う念あらざるはなし。
(真剣勝負で対決しようとするとき、必ず敵を倒そうとするはずです)

故に我体を総て敵に任せ、敵の好む処に来るに随ひ勝つを真正の勝といふ。
(しかしながら自分の身体をすべて敵に任せ、敵の好む処に来るに随い勝つことが本当の勝ちというものなのです)

譬えば箱の中にある品を出すに、まずその蓋を去り、細かに其中を見て品を見るが如し、是則ち自然の勝ちにして別に法なき所以なり
(例えて言えば、箱の中にある品物を出そうとするときには、まず蓋をあけ、細かにその中と品物を見るようなものなのです。これがすなわち自然の勝ちというのであり、別に法はないというのはそういうことです)

然りと雖も此術や易きことは甚だ易し、難きことは甚だ難し。
(しかしそうだとしてもこの術は簡単といえばとても簡単ですが、むずかしいことは非常に難しいのです)

学者容易のことに観ること勿れ。
(学ぶ人は容易だと感じたり思わないでください)

即今諸流の剣法を学ぶものを見るに、是と異なり、
(最近、いろいろな流派の剣法を学ぶ者を見ると、これと異なり)

敵に対するや直ぐに勝気を先んじ、
(敵に対するとき、すぐに勝ちたいという気持ちが先んじて)

妄りに力を以って進み勝たんと欲するが如し。
(妄りに力で勢い勝とうとするようなものです)

之を邪法と云ふ。
(これを邪法といいます)

如上の修業は一旦血気盛んなる時は少く力を得たりと思えども、
(このような修業は、一旦、元気のいい時には会得したと思うのでしょうが)

中年すぎ、或いは病に罹りしときは身体自由ならず、
(中年や老年になったり、あるいは病に罹ったときは身体が自由になりませんし)

力衰え業にふれて剣法を学ばざるものにも及ばず、
(力が衰えてしまって、剣法を学んでいない人にさえかなわないものです)

無益の力を尽くせしものとなる。
(このように無益の力を入れようとしているものなのてす)

是れ、邪法を不省所以と云ふべし。
(これが邪法だと理解できず省みていないというべきでしょう)

学者深く此理を覚り修行鍛錬あるべし。
(学ぶ者は深くこの理を覚って修業鍛錬するべきです)

附して言ふ、此法は単に剣法の極意のみならず、
(申し上げますが、この法は単に剣法の極意だけではありません、)

人間処世の万事一つも此規定に失すべからず。
(人間の処世のすべてはこの規定から外れることはありません)

此呼吸を得て以て軍陣に臨み、之を得て以て大政に参与し、
これを得て以って教育宗教に施し、これを以って商工農作に従事せば、往くとして善ならざるはなし。

(この呼吸を会得して軍事に臨み、これを得てもって政治に関与し、これを得てもって教育宗教に施し、これをもって商業や工業や農業などに従事すれば本当により良く事は進むのです。)

是れ余が所謂、剣法の秘は、万物太極の理を究めると云う所以なり。」
(これが私がいわゆる、剣法の秘儀は、万物太極の理を究めることだと言っている所以なのです)

私は、スポーツではなく、互いが刃を向けて真剣勝負を行うことを想像しただけで、異次元を感じています。スポーツは緊張することはありますが、場合によっては楽しいものです。

しかしながら、先の命の保証がない真剣勝負においては、次元が違います。

人生は、一度きりのいつ死ぬか、いつかは死ぬ掟のものです。

すると、見えてくるかもしれませんよね。

ありがたい。

明治十五年一月十五日
山岡鉄太郎

以上です。


情報と幸せ

「人はパンのみで生きているのではない」とキリストはおっしゃいました。

生きる上で大事なことを示してくださいました。

それは生活をしながら精神的な成長することを意味しているように思います。
私は世界の偉大な人たちを知り、学ぶことは精神的な宝物を目の前にしているのだと思います。
今や必要な情報は、いつでも手に入る時代です。

私たちにとって大事なものを見つけ、それを自分の学びにできることは大きな喜びとなるでしょう。
生きている意味と幸せの道を見つけるためには何が大事でどうしたらその本質を会得できるかにかかっています。

生活のためのお金儲けも大事ですが、本当の幸せを求めていくことはもっと大事に違いありません。

歴史上の偉大な人たちの教え、本物の持つ内実には、想像もつかないくらいの深奥と幸せの秘密を示しているのです。

ここは、人間の生きる上で心の根源で求めているものを会得し、活用するサイトです。

人は生きることの中に心が求めているものがあります。

人生には悩みはつきものです。

人生やさまざまな病気で苦しんでいらっしゃる方も多いと思うので、私の経験と研究から、その解決方法の提案があります。 

私が長年かけて考案、開発し、名付けた「武士道心体法」(Bushido-Sintaiho)を活用することです。

宗教ではなく、心理学ではなく、医学でもありません。

これは、自分の生命の根源や使命を極めようとするところを意義とし特徴としています。

「本来の心」は無限の可能性を秘めているのです。

あなたにもある「本来の心」の存在に気づくことで変化を起こすというところに根ざしています。 

あなたの心が本当に求めていることを会得し活用するのです。

古の偉大な教え、武士道を基礎とした身体心理療法の登場です。

「本来の心」って何でしょうか。 

私は幼いころ、死ぬと思えた病を克服するまさにそのときにその「本来の心」からのインスピレーションを受けました。

そのときの驚きは不思議なものでした。

いままでまったく考えもしていなかった感情と言葉が出たのですから。

私は寝たきりの状態から、四つん這いになって動き出せたのです。

そのころから私は、「生きること」について関心を持ち、現在も研究を続けているのです。 

「自分の生きる意味」を心で読みとることに行きつきました。

あなたが「武士道心体法」という幸せの体験手法により気づきを得れば、感受性や身体の反応や生き方が変わっていくのです。

人生を楽しむのは素晴らしいことです。

輝かしい人生にしたいという抽象的な瞑想でも有意義になるかもしれません。

しかし、それだけでは、「人生の妙味」を感じにくいと私は思います。

もっとも大事なことは、悩みや困難を含む生活をしながら気づきを得て、心を育み熟成する体験をすることで、魂が成長することなのです。

一人ひとりに個性があるように、目的が違うように、夢や希望が違うように、成功の中身が違うように、生きることの「動機と気づき」の内容がそれぞれ違うのです。

「生きること」のさまざまな過程の動機、その妙味に気づきを得ることが大事だと思います。

人生の悩みやつらさは見方を変えれば、新しい自分に出会うチャンスです。

例えば、癌( cancer )になったとしましょう。

あなたは不安なままではなく、医者にすべてお任せするのではなく、自分なりの治療方法を選択できるのです。

「武士道心体法」は、自らが「心」、「身体」、「技」に武士道心体法的アプローチをする体験手法であり、身体心理療法になるのです。

「技」の内容にお金をかけることができますが、「武士道心体法」は基本的にほぼ無料でできます。

どこかの宗教団体のようなお金を巻き上げるようなことはありません。

世界の誰もが平等に幸せを獲得するチャンスがあるのです。

この体験手法を活用することにより、心や身体は変わっていくものです。

例えば「癌」や重い病を予防したり、徹底的に癒すことが可能です。

生命力、免疫力を継続的に高めることです。

寝たきりの人もあきらめないでください。

医者から「死の宣告」を受けた人も絶望することはありません。

寿命が来るまでは希望があるのです。

必要に応じて、体温検査や血液検査や分画検査 ( 詳細はご自分で調べてください ) をしてください。

私は医学を否定するものではなく、むしろ、より良い道へ発展することを願う者です。

医学は、多くの人々に恩恵を与えています。

特に応急や緊急医療などは目を見張るほど貢献をしていると思います。

しかし、すばらしい医学界や医療などがある一方で、多くの問題を抱えていることは調べておいたほうがいいと思います。

抗がん剤や長期使用する薬が免疫を阻害していくのであれば、お勧めできません。

ここでは、あなたに潜む可能性に気づくだけでなく、活用することができるサイトです。

悩みに迷い苦しむだけでなく、困難を得がたい経験にしていく、活用していくことが人生の意義あることです。

私たちは孤独ではありません。

私の考案した「武士道心体法」は、古を学び、活用して、健康や病気についてだけでなく、お金儲け、家庭円満、人間関係など、人生の質を良くして、現在だけでなく、老後だけでなく、死後も幸せになるための自らが行う体験手法です。

生きがいを求める方やご協力いただける方は、ご連絡下さい。

人のためになる仕事をご一緒にしましょう。

夜船閑話の内観の秘法を試すのと試さないのとでは人生が変わってしまう。

暗いか薄暗いの快い温度や湿度の部屋にして布団の上であおむけになります。

大の字に近いような様子でゆったりとして少しずつ体の力を抜いていきます。

どんどん体中の力を抜いていきますとさらにゆったりとしていきます。

まるで肉体のどこにも力が入っていないような感覚になります。

そうして今度は両脚を伸ばし気味にして力を腰から下の下半身に満たしていくようにしてみてください。

いわゆる丹田(へそから下のほう)といわれる付近から足先までを下半身としましょう。

疲れたら力を緩めましよう。

そしてできるだけ静かに自分なりに呼吸を少しずつ深くなるように練習してみましょう。

何度も何度も自分なりに深くゆったりと呼吸を続けていきます。

眠りたかったらいつでも眠っていいのです。

この意味は自分なりに体の力の抜き方と呼吸方法を練習しながら自分の悩みや病気のことも気になることも一切を投げ捨てて呼吸と下半身に意識を集中していくことになります。

そうして下記を繰り返し繰り返し内観するのです。

①わがこの気海丹田腰脚足心、まさに是れ、わが本来の面目、面目なんの鼻孔かある。

②わがこの気海丹田、まさに是れわが本分の家郷、家郷なんの消息かある。

③わがこの気海丹田、まさに是れわが唯心の浄土、浄土なんの荘厳かある。

④わがこの気海丹田、まさに是れわが己身の弥陀、弥陀なんの法をか説く。

言葉の意味がわからずともなんどもなんども繰り返し、想像し、観念し集中していきます。

病気の人や悩みを持つ人は日頃からどうしてもそれらの状況にとらわれてしまっています。

やむを得ないのですが、この機会にその意識を変えていく時間をつくることです。

動物も病気の時は、ほんとに静かに寝ています。

普段は近づくと反応するのにそういうときは死んだようにほとんど反応しないものです。

これも自然の知恵というものでししょう。

ですので私たちも一切の自分のことや周りのことを遮断するようにして、一心不乱に上記のことを念仏のように心の中で唱えるのです。

上記のような言葉でなくともいいのです。

あなたにとってどういう言葉を選ぶかは自由です。

ここでは窮地に陥った白隠さん自身の体験したことの趣旨を深く感じながら試してみてください。

比較や議論することよりもまず実践してみることが大事です。

何か事を行うときには一心不乱に行って体験してみることが必要だと思います。

集中し、深くなっていくと眠りにつくことでしょう。

それでよろしいかと思います。

きっとあなたのためになります。

私は幼いころから車酔いをしました。

小学校のある日、観光バスの日帰り旅行をすることになってしまいました。

私はとても動揺し、その日は学校に行くのをやめようと思いましたが、そのことを言い出すのも勇気のいることでした。

担任の牧野先生が私のことを気にかけてくださって、私が車に弱いことをご存じだったようです。

先生は「私の言うことを聞いて実行すれば車に酔わないよ」とおっしゃったのです。

そんなことで本当に車酔いをしないのかが疑問でしたが、やってみるしかしょうがありません。

当日、私は先生から言われたとおりに窓際に座り、窓から遠くを見続けることにしたのです。

左の窓際の席に座っていたので、いつも左向きで座っていました。先生は私の右隣に黙って座っておられました。

その日、私は一心不乱に実行し、バスの窓から遠くの風景を見続けることにしました。

それしかすべがないのです。

酔うのも吐くのもとても怖くて恥ずかしいことですから。

そうしておりましたら酔わなかったのです。

一心不乱にバスの窓から遠くを見つめているだけでした。

帰りのバスの中では、私は少し自信がつきました。

でも油断はできません。

いつまた気持ち悪くなって吐くかわかりませんから。

バスを降りるまでは油断できないのですから左の窓から遠くを見続けただけです。

酔わずに小学校に帰ることができたのです。

不思議と首は痛くないのです。

なつかしくうれしかった出来事でした。

亡くなった牧野先生のことを思い浮かんだら、私は心の中でお礼を言っています。

そして、私はその「ご恩に報いる」ためにも他の人へ「ご恩の繰り返し」をしたいのです。

きっとあなたのためになります。


日本の古から伝わるものは現代の私たちの悩みを本当に救えるのか

日本の古から伝わるのものは、どうしてすたれてしまっているのでしようか?

というよりあまり表舞台に出ていないように見受けられます。

日本製品や日本食が世界的に広まっています。

自然を緻密に見つめ、自然を敬愛すると同様に自分を見つめ自然の本質と同化して極めようとする精神世界が見え隠れしています。

さらに進取のオリジナリティを求めています。

話はちょっと変わって、昔、渋谷界隈で女の子のガングロといっていいのかわかりませんが、特徴のある人たちがあまりわからないような言葉遣いなどをする人テレビ出演することがありました。

言葉遣いや態度は別として、私からすれば彼女たちが自分たちにあった言葉を作ろうとしてコミュニケーションをとることは日本人の進取の気性や彼女たちなりの互いに仲良くしようとする片鱗をのぞかせていたことにほほえましく思っていました。

ただ見た目にはあまり好きなほうではありませんが、オリジナリティはあります。

それに悪いことをしていないでしょ。

寛容な気持ちで見守りましょう。

いったいこんな小さな国がどうして、いろいろな意味で世界にも認められる国になっているのかを考える必要があります。

ひとたび私たちが海外に生活してみるとわかるような気がします。

やはり誰でも自分の国を離れると生まれた土地の文化を懐かしくなるものです。

そのようなことでより日本の文化に気づき、そして日本の文明の高さに改めて気づいていくものです。

そして日本人自身が自分たちの古から伝わる大事な精神世界をなおざりにしているように感じたのは、もしかするとそのすごさに気づいていないだけなのかなと思っていたのです。

病のときは人生のチャンス

病のときにはつらいものですが、一方、何かをつかむとてもいい機会だと思うことです。

食事を大事にして、信じている医者や治療方法に従うことです。

ただし、本当に信じられる医師がいたとしたら。

特殊な病気など以外は、なるべく西洋薬を長期に続けることはお勧めできません。

よく調べたり相談してみてください。

自然を利用すること。

これがヒントだと思います。

また周りのことや仕事のことなどに気を使わないようにするべきです。

それにいろいろと心配してはいけません。

もう余計なことはしないと決めて、専心に

病と向き合い、自分の心を深く深く信じていくことです。