一飯の恩義と報恩


7月19日、夏の強い日差しの中、当時、学生だった私は全生庵の門をくぐりました。
たくさんの蝉の鳴き声が聞こえておりました。
東京の谷中にあるこの全生庵は、山岡鉄舟が1883年、幕末明治維新の国事に殉じた人々の菩提を弔うために建立した寺です。

座禅のできる本堂があります。
私は「武士道」という本で、山岡鉄舟(1836年~1888年)のことを知りました。
山岡鉄舟は1888年7月19日に座禅をしたまま亡くなりました。
鉄舟の残した記述文書類は簡潔。
しかしその深みは海のようでも広がりは天空のようにも感じられます。
調べれば調べるほど驚きの人物です。

まるで日々が命がけとでもいうような生き方をされていたと私には感じられます。
私は敬愛の念がおさまらず、山岡鉄舟の命日にお墓のある全生庵を訪れたのです。
私は日本酒の小瓶をいくつか入れた白いビニールを手にしていました。
お酒の好きだった山岡鉄舟の墓前に持ってきた日本酒を差し上げ、しばし茫然としておりました。

関係する他のお墓にもお参りをした後、本堂横にある事務所のほうに行ってみました。
その日は山岡鉄舟の命日でしたので催し物があるかなと思ったのです。

何か奥の方でやっているようです。
靴を脱いで奥の方に歩いて行くと広い畳の座敷がありました。
そこには背広姿やお坊さんたち(招待客20人以上だったと思います)が、談笑しながらお膳を前にして食事をされていました。
私はもちろん招待はされておりませんでしたし、知り合いがいるはずもありません。
すぐに帰ろうかと思いました。
しかし恥ずかしがりやだったはずの私が、その日だけは違っていたようです。
なんと私は空いている下座のほうに座ってしまったのです。
その広い座敷の上座の方の席には、テレビなどで見覚えのある政治家で、のちに首相になる中曽根康弘氏もお坊さんたちと談笑していました。
私は確かに居心地悪さを感じてはいました。
ところが、私は座っただけでなく目の前に置いてあるお膳の食事を食べ始めてしまったのです。
私のそんな様子にまわりの誰かが気づいていたはずです。
でも誰も私を咎めようとしませんでしたし尋ねようともしませんでした。
そんな私をまわりの誰もが黙って見守ってくれていたのだと思います。

会食している人たちはほとんどが背広姿でしたが、私は貧乏学生らしく白っぽいシャツにジーパン姿だったのを思い出します。
私は食事を終えたあと、誰にも挨拶もせずお礼も言わないで外に出てしまいました。
今思うと恥ずかしいかぎりです。
なんとなく何かしらの不思議さを感じながら全生庵を後にしたのです。
日本の徳川幕府の時代は200年以上もの長い間、鎖国をしていました。
その徳川幕府の幕末当時の世界情勢はアフリカやアジアや多くの地域や国が欧米の人たちによって次々に植民地化されていました。
そして、とうとう日本へもアメリカの黒船が来航したり、ヨーロッパやロシアの使者などが来日してくるようになったのです。

大航海、産業革命以降、産業技術の発達した欧米諸国は、世界各国との力の格差に目をつけて、劣ると見るや、あるいは利益になると判断するやそれらの地域を侵略していったのです。これがのちのちの世界各地の紛争や後に展開する大きな戦争につながる原因の端緒でした。

大東亜戦争を始める日本人の考え方が如実に現れているのを知るには、天皇の発せられた「開戦の詔書」と「終戦の詔書」読むことでしょう。

また日本に旅行に来てくだされば、日本人が昔から和を尊び、紛争や戦争を嫌っているかなどを感じられることでしょう。
幕末期の日本人は、そんな世界情勢に危機感を持ち、武士を中心にして日本を守るべく動き出しました。
かってない激動の時代の始まりでした。
各地の下級武士が、日本を守りたい救いたいというやむにやまれぬ志を胸に生まれ育った藩から脱藩をして情報や人々の集まっている江戸や京都などへと向かったのです。
脱藩は本人だけでなく、家族も罪になることですし、秘密裏に行動しなければなりません。
しかしそれでもいつかは藩や幕府に露見してしまいます。
電車もバスも飛行機もない時代でほとんどが徒歩です。
脱藩したサムライたちは育った藩や幕府の取り締まりなどをかいくぐるしかありません。
普段、人の通らない険しい山々に分け入って身をひそめながら、ひたすら目的地に向かったのです。
彼らは日本を外国列強の侵略から守りたいという一心でした。
その後、国内の各地域で佐幕派、討幕派、攘夷派、尊王攘夷派など主張や立場の違う勢力同士の命を懸けた壮絶な闘いをしました。
そして日本人は驚くべき結果を出しました。
いままで日本の政治を行っていた徳川幕府が、その政治権力すべてを朝廷に返還したのです。

驚くべき偉大な判断です。
大政奉還です。
すると朝廷は政治権力を維新側にすべて委ねることになります。
結果的にいままでの権力側だった幕府が、すべての政治権力を維新側に譲ったことになりますから、おそらく、このような国民の意識と行動などは世界史に例のない出来事だったと思います。
大きな戦いは避けられ、最小限の流血で革命ができたのでした。
明治維新です。

日本は富国強兵を進め、国力をつけていき、欧米列国からの植民地化を防ぎました。

私は幕末維新は日本人の特徴をよく現しており、たいへん学ぶことが多いことに気づきました。
その時代に徳川幕府の幕臣であった山岡鉄舟という武士がいたのです。
私はこの人物はさらに一味違う人のように思えました。
武士であり、剣の道を志しておりましたが、その究極を究めるために禅や書を学びました。
山岡鉄舟の生き方は剣の道を修業をしているようでいて、実は求道者だったと私は直感しました。
晩年には剣の道を究め、とうとう「無敵の極所」を会得しました。
「剣法の秘は万物太極の理を極めること」だといわれました。
「万物太極の理」とは「摂理」だと私はとらえています。
「武士道」の体得者であり提唱者である山岡鉄舟の心事を折に触れて私は考察してきました。

そしてようやく私は「武士道心体法」をあみだしたのです。
これは自らの心の本源、本来の心に気づき、さまざまなことを克服していく手法です。

生老病死の苦しみ、貧困、孤独感など人生の悩みなど不安な毎日をすごしている人たちをなんとか助けたい、癒したいと思い、開発したのが、成功、幸せの手法である「武士道心体法」です。

武士道と同様に人生全般に活用するものです。

私はどちらかというと病気に縁があったのかもしれませんが、「武士道心体法」をがんを癒やす手法に活用してアドバイスをしています。

例えば、がんを徹底的に癒やすために心、身体、技を「武士道心体法的アプローチ」をします。

つまり、できるだけ薬を使わずに免疫力を高めていけばいいのです。

がんは怖くないのです。
がいし人はたとえたくさんの金銀財宝を貯蓄したとしても年を重ねるごとに醜くなり病や怪我などで死んでいくのです。

お金は必要不可欠なものでたいへん役に立つものですが、使い方によれば毒にもなります。しかもあの世には持って行けません。

家族のために残した財産はいつしか消費されてしまうものです。
また組織や国がどんな立派な改革やシステムを構築しても時と共にいつしか崩れ去る方向に向かいます。
私たちはエゴイズムや差別感が蔓延している混沌とした世の中に棲んでいて、人は困難や苦しみや悩みに遭遇してどうしたらいいのか迷っていると思います。
私は宗教者でもなく、霊能者でもなく、学者でもなく、心理学者でもありません。
むしろ幼いころからいいかげんな生き方をしていた人間でした。
コンプレックスに悩み、心だけでなく体も弱々しかったのです。
そういう自分をどうしたらいいのだろうか?という疑問から、さまざまなことを学んでいきました。
しかし宗教や哲学に関する書物、専門書やマニュアル本やたくさんの情報がありますが、それらはその場しのぎであり、土壇場の力にはならないのではないかと考えました。

一方、世の中が、安全で平和な社会を維持するには、莫大なお金がかかり続けます。またシステム構築や法律の整備などしていてもおのずと限界があります。

人は本来の心に目覚めるべきだと思います。

人々は心が変わっていくようになれば、世界の貧困も少なくなり、不条理がより改善されていき、安全で平和がおとずれてくると思いました。

次回には私の開発した「武士道心体法」を説明した「武士道心体法基本」を販売予定にしております。

その後は、「4024年、武士道心体法プラン」を発表したいと思っています。
「神道にあらず、儒道にあらず、仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら部門に於いてその其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云う」と山岡鉄舟は説明しています。

若き日の私が山岡鉄舟の建立した全生庵でお墓参りをさせていただいたあと、思いがけない一飯のお世話になったことには意味があったことに気づきました。

人のために生き、死んでいった多くの尊い魂へ報恩したいと思います。

現在および未来の人たちの苦しみや困難を解決するための一助になりつつ人生を終えたいと私は願っております。

今年の夏も私の心には、たくさんのあの蝉の声が聞こえているのです。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です