私は幼いころ、自宅と学校との道をいつも下を向いて通っていました。
私は、多少の茶目っ気はあるものの、身体が小さくて、おとなしかったので、小学校のクラスメイトからの虐めに悩むことになります。
私は、いじめっ子から毎日のように密かに虐められていたのです。
しかしその日、私にとって大きな出来事が起きます。
小学校の体育の授業の時間、クラスメイトのいじめっ子3人が、いつもより私を追い詰めてきました。
その体育の授業時間が終わってクラスメイトのほとんどは次の授業のために教室に行ってしまいました。
私も教室に行けばいいものですが行けないようにいじめっ子3人に邪魔をされたのです。
体育館には誰もいなくなったのをいいことにそのいじめっ子たち3人はいつもより執拗に私に迫ってきました。
そのあまりにも執拗ないじめに悲しくなってきました。
そしてとうとう、思わず私はいじめっ子たちの中のボス的な人物の頭の部分を私の右腕で巻き込んだのです。
そして巻き込んだまま私とそのいじめっ子はともに床に倒れ込みました。
それでも私の右腕を相手の頭の部分を強く巻き込んだまま放しませんでした。
私はとにかく必死でした。
不思議なことに私たちの様子をそばで見ている他のいじめっ子2人とは、ボス的ないじめっ子を助けようとしませんでした。
私は相手の頭の部分を締め付けたまま、決して離すまい必死の形相だったと思います。
私は { 絶対、離すものか } と覚悟を決めていたのです。
頭を絞められた相手は最初の頃は私に対して「すぐに放せ」と脅す言葉を投げつけていましたが、しばらくもがいていました。
沈黙が続きます。
そして、とうとう弱音を言ってきまたのです。
「痛くてたまらん、離してくれ」と私に頼んできたのです。
私は断りました。
私は「放さない」と言い切りました。
私はそばで立って私たちの様子をじっと見ている他のいじめっ子2人は、私のその必死な様子が尋常じゃないことが分かったのかもしれません。
私たち2人の様子を窺うばかりです。
とうとう、頭の痛さに堪えきれなくなったボス的いじめっ子は「頼む、、頼むから、離してくれ、、}とこんどは何度も泣くような声を出すようになったのです。
しかし私は必死でしたし、そんな様子にまわりで見ている2人のいじめっ子は、ただただ様子をうかがうばかりです。
今思えば、すぐ近くで様子を見ているいじめっ子2人が私たちを引き離すことなんて容易なことだったと思います。
しかしそうはしなかった。
私は相手に対して「いじめをしないという約束をしなければ決して離さない}と何度も断言しました。
私に頭を締め付けられているいじめっ子は、とうとう「何でもするからとにかく離してくれ」と私に願うようになってきました。
「もう、虐めは絶対しないから、とにかくその腕を離してくれ。お願いします」と懇願する声を出してきました。
授業の間の休み時間も終わり、すでに次の授業が始まっているはずです。
私にとってそんなことはにはどうでもいい事でした。
私はその3人のいじめっ子からの長い間の虐めに苦しんでいたのですから、「そのぐらいの返答ではとても信用できないし、私は放さない」と断言しました。
「そばで見ている人も私と約束しろ。今後は絶対、私にいじめをしないことを」とさらに私は要求しました。
すると周りで立って見ていたいじめっ子も、我に返ったように「約束する。約束する。これからは、あなたにいじめはしない」と言いだしたのです。
私のほうもその頃は、腕の痛さを感じてきてはいました。
私はこの3人のいじめっ子に対して何度も約束させたうえで、ようやく相手の頭から私の腕を放しました。
それ以来、そのいじめっ子3人から私への虐めは一切なくなったのです。
なぜ大人も子供も虐めをするのか考えるようになりました。
虐めをする子供自身も大人自身もさまざまな背景や事情があるでしょうが、共通点もあるように思います。
人が人を虐めたり、差別したり、ついには暴力をふるうようになるのにはどこが鬱屈した心情が潜んでいるようにも思えます。
逆に人に優しくしたり、助けようとするのも共通点があるように思います。
これらは社会や地域、国家間にも通じる共通点が垣間見えるのです。
人にはさまざまな生きざまがあるように国や地域にも歴史があり、生活を営んでいます。
人生には生老病死やさまざまな苦難が待ち受けています。
病に苦しんでいる人たちがたくさんいます。
さまざまな人生の問題を解決する手法として私が開発して名付けたのが「武士道心体法」( Bushido-Shintaiho )というものです。
これは宗教ではなく、医学でもなく、心理学でもありません。
思想や瞑想や似たような手法はありますが、このような魂の成長に根ざした現代の自らの問題を解決するみんなのための体験的行動手法は他に見当たりません。
世界のさまざまな偉大な古から、私たちは学ぶことは大事です。
しかしながらそれらを現代の私たち個々に活かすことができなければ学んでいる価値が薄れてきます。
すべての人たちに応用できるとは思いませんが、超一流の古の考えや手法から学び、現代の平凡な私たちに活用、工夫していくことができる、より素晴らしい可能性があるのです。
例えば癌などで医者からの余命宣告を受けたとしても決して諦めることはありません。
すでに医学情報などは手軽に誰でも手に入るのです。
「武士道心体法」は心を主体として身体に活かす手法であり、問題の渦中の詳細の根本を突き詰め、自らが解決していこうとする体験的行動手法です。
究極の幸せの道を歩むための手法です。
これを世界に広めたいと思います。
心と身体か弱かった私が、人生の不安に揺らぎながら、数十年かかってとうとうこの手法を考案したことは、たいへんありがたく思っています。
あなたに伝えたいものを作ろうとしています。
多少、時間がかかるかもしれませんが、ご期待頂ければと思います。
あなたの具体的構想や技術のある方はお知らせください。