無とはどういうことなのでしょうか?
こんなに忙しく生活しているのに「無」なんてなんなんだ。
私たちの生活しているのに「無」なんて関係ないだろう。と思えます。
生きることの苦しみを抱えている人もいるかと思います。
もしかするともっと深刻な人もいるかもしれません。
どうぞその前に私の話を聞いてみてください。
1836年生まれの武士である山岡鉄舟は江戸に生まれます。
サムライの鉄舟は9歳にして撃剣の道を志し、13歳のころより禅学を好んだようです。
書は幼年のころより学んでいます。
鉄舟が幼年のころからのことを記しているなかで、私がとても重要だと思われたのは
①父母からの話。
②山岡静山との出会い。
③浅利又七郎との出会い。
④各和尚との出会い。特に滴水和尚です。
⑤さらにたくさんの出会いがあるので、機会があれば、いつか記するつもりです。
鉄舟は剣の道の極致を求め13歳のころより禅に参じます。
禅の公案である「本来無一物」とか「無」とか十年以上ときをかけていますが、鉄舟はなかなか釈然としません。
禅学は武州柴村長徳寺の願翁、豆州沢地村龍沢寺の星定和尚、京都相国寺の獨園和尚、相州鎌倉円覚寺の洪川和尚、京都嵯峨天竜寺の滴水和尚に参じ最終的に滴水和尚の印可を得ました。
やはり先生を求めたのです。
浅利又七郎という人との試合では、「果たして世上流行するところの剣術とは大いにその趣を異にするものあり。
外柔にして内剛なり。
精神を呼吸に凝し、勝機を未撃に知る。
真に明眼の達人というべし」と語っていて、あたかも山に対するがごときで浅利に勝つ方法が見当たらないというのです。
真剣勝負ではどちらかが死ぬ可能性が高いのです。
ここに鉄舟が目指していた剣の道の本筋が見えてきます。
よくよく読むと現代の私たちの勝ち負けのスポーツや生活の態度や味方とは全く違う領域を目指していることに驚くのです。
武士という自分の立場でその剣の道の極致を感得したい。
そのためには自分の心の極致はどういうことなのかを感得する必要があることに至ります。
そこで鉄舟はそのために禅理を求めます。
そして剣法と禅理とを合わせ、それは帰一であると言っています。
しかし大悟する前は、何をしてもどうしても浅利に勝つ方法がわからないのです。
浅利は一つの大きな山のように鉄舟には感じられます。
勝負に勝つとか負けというだけのことではありません。
自分と浅利の真剣勝負においては、どうしても勝つことができない。
心の在り方はどうしたらいいのか、いくら模索してもわからない。
なんとかして心の作用やその根源を感得したいという問題にぶち当たっています。
そのために自分と天の領域の極致を求め修行しているという驚くべ人物の姿が浮きあがってくるのです。
ここに鉄舟の懐の深さと非凡なところがあるのではないでしょうか?
私は東京の谷中の全生庵で「鉄舟居士の真面目」という本を購入して読んでみると鉄舟の眼のつけ方が私たちとはまったく違うことに気づきました。
その鉄舟が、滴水和尚から、
「両刃鉾を交えて避くるをもちいず
好手還りて火裏の蓮に同じ
宛然自ずから衝天の気あり」
を与えられます。
鉄舟はこの句に非常に興味深く感じました。
すくなくとも「無」より具体的なヒントのように感じます。
鉄舟は喜び勇んで、この公案をどこでも毎日、考究し続けます。
しかしそれでもなかなかわからない。
そこに先に記した平沼専蔵(横浜銀行創業者)の話になるのです。
ある日、平沼専蔵が鉄舟のもとに訪れ、専蔵が自分の仕事の話をします。鉄舟は聞くともなしに聞いていました。
ところがそのどこかが、鉄舟の心の琴線にひっかかるものがあったのです。
鉄舟はその日以降、いつものように毎日、座禅をします。
そしてついに明治13年3月29日の夜から天地万物、無きの心境に達し、翌30日の夜明け、ふと我に返ったのでした。そのとき45歳でした。
鉄舟は、そのとき、いままでとは全く違う自分を感じます。大悟をしたのです。
鉄舟はすぐに弟子を呼び寄せ、試してみました。
弟子は鉄舟の前で立ち会いますが、目の前の鉄舟に「こんなことが人にできることなのか。
先生の前に立っていられません」と不可思議な状況を鉄舟に伝えます。
心や気はなんと不思議なものなのでしょうか?
鉄舟によればそのあとの自分の剣や禅だけではなく書もがらりと変わったそうです。
真の武士道も完成されていたのです。
ですので「無」というのは何もないということではありません。
私のような愚鈍の者は、いつも雑念から始まるものです。
しかし座禅をしていくといままでとは違う心境になってくることがあります。
でも座禅という形にこだわることはありません。
体が動かず寝たきりや病気の人でもできる有益な方法があるのです。
どちらにしても雑念から集中へを続けていくと無意識的な心の動きが訪れてきます。
いつしかふと我に返るとき、心持の良さが感じられます。
「雑念」から「無へ」の世界が深くなればなるほど心のすばらしさを感じられるものと思います。
ここに白隠の内観の秘法に通じるものが隠されているのです。
つまり「無」というものと内観の秘法は繋がっているのです。