人はともに幸せを喜びあう縁

手と手を合わせて幸せになります。

目と目を合わせて喜びがあります。

人は夢と悩みを持つものだと思います。

不安にさいなまれることがあると思います。

生きていく上で、困難や壁を感じるのは自分が選んでいるところがあるのだと気づきました。

もしかするとこの世に苦しくて生きることさえできないと感じている人がいるかもしれません。

だけど少し考えてみませんか?

決してあきらめることはありません。

なぜかというと「縁」が必ず現れます。

誰にも必ず「幸せ」という「縁」はあるのです。

成功者と言われる人は、たくさんの失敗や挫折や孤独や壁を感じながらも克服していったのです。

もし、孤独が真の孤独であれば、人は生きていくことはできません。

人は真空では生きていけません。

私のように孤独的な生活をしたり、ある程度のつらさがあっても人とのつながりをどこかで感じているところがあるからこそ、人は生きていけるのです。

私は宗教家でも心理学者でも国の関係者でもなく、一切の関わりもない一般市民です。

私が申し上げたいのは、私たちが生きていけるのは、意味、理由があるということです。

今の生活に不満をお持ちだと思います。

しかし、自分自身の思いを達成することの機動力は、生きていることへの感謝が日々できるかどうかにかかっていると思います。

悪口や愚痴を「吐く」という字を形作っている「±」の「ー」の部分を無くせば「叶う」という字になるのです。

やはり、人は字の如く、可能なかぎり、それぞれの立場で互いに助け合い、支え合って生きることの妙味に笑い、嬉しさが、人生の不条理や苦しさなどの感覚を克服することができると思います。

失敗や挫折や孤独感などは、人それぞれに感じ方が違うものです。

この世での現在過去の苦しみを覚悟して糧とすることができれば、ということを私はテーマにしています。

人間的な成長をするために与えられたこの世とあの世の不思議な奇跡のような人との「縁」を良いものにとらえるか、苦しいととらえるか、出会いを人生の糧にできるかどうかが、鍵だと思う一人です。

人は考え方次第で幸せな自分になれるはずです。

社会を変えようとする前に、人に説教する前に自分が変わることが大事でしょう。

そんな人と人の心の手と手を合わせると未来は開かれるはずです。

心の目と目を合わせると明るい日々になっていくことでしょう。

人という字は互いに支え合うような形をしています。

私たちはともに幸せに喜ぶために生きているのです。

AIが人間のさまざまな能力を超えて成長していくのは楽しくもあり、危険性もあります。

摂理の一部と思われる、無限と言われている宇宙の中の地球に棲んでいる私たち人間の能力を超えたAIを人間がどのようにデザインしていくかという入り口に差し掛かっているのです。

この入り口ですでにAIは人間の能力を超えているのです。

紆余曲折はあっても引き返すことができないのが人生であり、歴史の宿命です。

善のたくましさは、根気よく続けるということの中に正しさが含まれています。

だから根気が続かない悪は正義の前にいつかは頓挫するのです。

たとえ苦しくとも朝の光はやってくるのです。

私が死の淵から学んだこと

もし、あなたが不安や苦しみや寝たきりになって、「もう、だめだな?」とか、そして「もう、死ぬな」とお思いになったときに、お考えになっていただきたいことがあります。

できれば、そうならないうちに考えていただきたいことがございます。

それはあなた自身のことについてです。

そういうときこそ、自分のことを振り返る時間があります。

私もそうでした。

人は、いつかはそうせざるをえないときが必ずあります。

それが、私には何度かありました。

第一回目は私が幼いときに起きました。

病を甘く考えていました。

「何かわからない病気のようだか、しばらくすると治るだろうし、治してやる」と軽く考えていたのです。

ところが、何日経っても治らないどころか、食はしだいに細くなって、とうとう何も食べられなくなり起き上がるのがしんどくなりました

ついには、夏だというのに水さえほしくならなくなったのです。

強気でいたはずなのに、どんどん弱気になっていきました。

天井や壁を見つめては、いつのまにか眠り、そして目覚めては考えにふけり、疲れてはまた眠る日々が続きました。

不安がどんどん増していきました。

私の心が弱気へと向かっていったのです。

そのような「虚」をつきつめていくとその「虚」さえ、死の前では、自我のかけらなのでした。

ついには「死」を覚悟する状態であることを感じました。

そして、とうとう私はある決断をすることになりました。

するとしばらくして、何かがうごめいているのを感じました。

それは、今思うと生命のうごめきだったと思います。

断食状態になっていることが、私の命を救ってくれたということもあるでしょう。

しかし、それだけではなかったのです。

なぜならば、そのときに私は「私の使命」を「生命」から受け取ったのを感じたからです。

その「言葉」が自分の口から出たのには驚きでした。

不思議な体験でした。

人は、生きていることの中に意味があり、どこかで「使命」を感じるときが来ることでしょう。

この体験が、私が死の病から助かったこと以上の驚きであり、神秘でした。

これは、私が幼いときに病から学んだことです。

現代は身体に悪いもの、身体に良いものの情報が溢れていて自分なりに活用することができます。

飲食物、生活環境、呼吸、運動などについて。

そのためには、お金が必要になります。

それが目的ではないにせよ、人は健康や長寿や楽しみなどを願うものです。

生活する不安を無くし楽しみたいからです。

そのためには、戦術よりも戦略が必要であり、そして心の持ち方が大事だと思います。

心は体を司るのです。

時代のうねりが求めていること

日本は数十年、静かにしていました。

しかし、時代の大きなうねりと転換が日本にも波及しています。

そのうねりの中で社会は飛躍的に変容し、インフレ、生活経済の格差や不満の拡大などに悩まされることになると思います。

すると偏見や嫉妬などによるストレスからくるさまざまな事件が、世界中に多くなっていくでしょう。

混沌やカオスの世界などと表現する人が出てくるかもしれません。

このうねりの原因は、アメリカの金融に携わる人々の欲望とそれを利用し儲けようとしたことにあります。

そのシステムが津波のように世界的に広がっていった。

しかし、うまくいかなくなっていったことによるものだと思います。

つまり、アメリカその他の国々の民衆の支払い停滞の問題が生じたのです。

それが大きな問題であるために国の財政を使って補助せざるをえなくなった。

たくさんのドルや自国紙幣を組織や会社や人々に与えて、問題解決しようとしたことによるものでした。

かくして、国々の財政の借金がかってないほどに大きくなり、それを解消するためにインフレの津波になっているのです。

インフレ時には、賃金や給与などの実質的価値が相対的に下がることを意味します。

そういうインフレの波は、アメリカから始まり、世界の国々へ津波のように広がっているのです。

それだけではありません。

インターネットとAIを使うビジネスチャンスは莫大であり、成功していく少数の組織や会社の価値財産は、どこかの国の財政よりもはるかに大きくなっているのです。

だから、アメリカをはじめ、国々は自国の命運を作用するような会社や組織を守ろうとするでしょう。

つまり、組織や会社などが国々の政策に以前より影響を与えていくことを示しているのです。

インフレ時に民衆や組織にばらまく補助金などは、もともとは民衆から強制的に徴収した税金から支出するものであり、そのお金を民衆の一部に横流しているだけですから、なんら生産的でなく、政治的付加価値のないものです。

それは、あたかも政治家たちの票集めのためであり、官僚のねらいが集約されたものです。

ところが、民衆にとっては、補助金で助かる一部の人々はいるけれども内実は重税を感じることを意味します。

税金を徴収する財務省はじめとする官僚側は、国民から集めたお金と天下り先を確保するために政治を裏側から牛耳ることになって行くのです。

結果的に国家主義、社会主義的になっていき、増税で苦しむのは、私たち民衆になるのです。

政府自体が国民に奉仕するという基本精神がなおざりにされ、政府が国民をコントロールしていることに問題があります。

「既得権益」という金儲けをしている複数のグループの存在をも裏で闊歩しているからでしょう。

このような時代は、人々の争いは多くなることから生活の苦しみにつながり、不満は溜まり紛争や戦争が起きやすいのです。

目に見える戦争だけでなく、見えない深刻な戦いが国内外に頻発し、生活に影響を及ぼしていくことを私は危惧しています。

私たちは、大量の印刷された紙幣が社会に流れ、かってない技術革新から生み出される富はインフレをさらに加速させるのです。貨幣価値はどんどん減少することになります。

給料は、その後追いをせざるを得ない。

貯蓄しているお金は危機感を持つことになりますから、人々は株や不動産や金などの資産価値を生み出すものに移動させるか、富裕層は、税金が低く規制の少ない地域へ国を跨いで活動することになっていくのです。

私たちは、変容していく時代の求めていることを理解して対応していくしかありません。

この経済状況の津波と科学技術の変貌する革新的なうねりは、人間の欲望や善と悪の先鋭的な闘いが含まれています。

しかし、古より日本人の根底に流れている精神文明が続く限り、さまざまな困難を克服していくのだろうと私はは申し上ておきます。

輪廻のとらえかた

この世の生老病死を経て、人は輪廻を繰り返しています。

出会いと別れが、そのエッセンスに彩りを与え、その進展は、過去現在未来をも変化していく可能性を秘めています。

考え方、心の持ちようが自分の未来を変えていくことになります。

このことを気づくのに私は時間がかかりました。

また、その喜びと哀しみと痛みは、人に優しさと深みを与え成長するための天然の肥料となることでしょう。

負の財産ではなく心の糧とすることができるはずです。

心の捉え方で過去は変えることができるということになります。

よって、人生を解く秘密の鍵は、心の持ち方によることになります。

生きること

私の愛する妻が亡くなりました。

私たちは、本当に幸せな夫婦でした。

言葉では言い表せないくらい妻はすばらしかった。

美しく愛らしい人でした。

あれほど心が純粋で人に優しく、気配りがあり、人のために何ができるかをいつも考えている人をいまだかって私は、巡り会ったことがありません。

彼女は霊界のことも私に教えてくれました。

「霊界?」とあなたは、お思いになるかもしれません。

この世に降りてくる以前である霊界での彼女が、どういう立場でどういう存在で、何をしていたかまで私に教えてくれたのです。

霊界にいた頃の私や私の両親を見ていたことまで教えてくれました。

そして、私は両親からこの世に生まれたのです。

そして、私はこの世で成人して妻と結婚しました。

月日の過ぎるのは早く、互いの両親も亡くなっていきました。

私と共に生活している彼女は、自分や私の亡くなった霊界にいる両親とも普通のように話をしていたのです。

もちろん私には、彼女のご両親や私の両親は見えません。

私は霊界のことについては、若い頃から勉強したり、わずかでしたが体験もしていたので不思議には思っていなかったのです。

霊界にいらっしゃる彼女のお母さんとも彼女を通じて話をしたことがあります。

もし、あなたがこのことを信じられない人もいらっしゃるかもしれません。

霊界では、神や天使などの高い領域があり、私たちの知らないさまざまな人たちが存在しているのです。

私たちの想像を超えた世界があるのです。

それを聞いた私は、無限といわれている宇宙というものは、霊界からしたら、ほんの一部なのかもしれないと思いました。

私たちが、輪廻を重ねて、この世に生まれて出会い、別れ、さまざまな体験をするには意味があります。

ですが、私たちは日常生活にとらわれやすいのです。

私たちの生きることの本質と心の底で求めていることの中に人生の妙味があるようです。

そうだとしても現世で幸せに生きていた私たち夫婦のうち、妻がこの世を去っていってしまうと私の心は大きく揺れ動き、私自身の脆さを感じてしまいました。

愛する妻が亡くなってから、一人になったことの落差が大きいのです。

どんな出会いも別れは必ずあります。

去っていく者があれば残される者がいます。

ですから、どうか皆さんは、ご家族やお友達を大事にしてください。

縁とは不思議なものです。

親との縁、家族となる縁、人々との縁。

人は、一人で生まれ、出会いと別れがあり、人々とともに生き、そして一人で死んでいくのです。

でも人は一人ではありません。

何がしか見える見えない人々のお陰で支えられて生きているのです。

孤独感はあっても、本当の孤独では人は生きていけません。

私は幼い頃から、悪さばかりし ては、のちに苦しみ、反省したり、または人に騙されては怒りました。

でも、よく考えてみるとその原因の一部には自分の心と行動の中に自業自得性があることを感じています。

良い人との縁を結んで行くには、それなりの原因結果を遂行していかなければなりません。

人は輪廻転生を繰り返しながら、魂の汚れを磨いて成長していく定めです。

このような情けない今の自分の状態から、脱却しなければならないことを感じています。

私の愛する亡き妻は、生前に「あなたは私の同志です。私はあなたの守護霊になるからね」と私に言ってくれていました。

それほど私たちの絆には深いものがあります。

霊界から、いつも愛する妻が私を見守ってくれているのです。

ですから、私はいつものように明るく元気をだして、この世の私の余生を楽しみ成長したいと思います。

幼い頃、神様に約束した「あること」を私は実行しなければならないと思っています。

輪廻転生の意味

私たちは自らの至らぬ心を磨き、行動しながら学んでいるようです。

どこまでも摂理に感謝し、自分なりの気づきを得られるかどうかだと思います。

自分が生きていることがあたりまえのように思う人は多いかもしれません。

でもあるとき、苦しんだり、つらいとき、自分を振り返ることがあります。

このような機会には、生きていることに何かしらを感じるのです。

宇宙から観たら、こんな目に見えないほどの粒子のような自分が、生まれて死んで輪廻転生を繰り返す意味の内実が観えるかもしれません。

心を磨く

私は、100歳に向かっています。

身体が弱く、コンプレックスの固まりで不安だった自分が、なぜこんなに長生きしているのか不思議です。

いつかは病院に行って、血液検査とか尿検査ぐらいならしようかなとも思います。

病院は、不安な要素があるから、ほとんど行きません。

でも緊急とか応急とか病院のお世話になるのですから、大切な存在ではあります。

どのような分野でもそうですが、お医者さんの心得、力量次第ですよね。

私は、こんな死に近づいている歳になっても、やりたい放題、はちゃめちゃな生活をしております。

先行きはわかりませんが、おかげさまで今のところ、お金にそれほどは不自由していないので、問題は健康と孤独感と最後までの人生のことだけです。

健康は、こんなはちゃめちゃな生活をしている以上、ある程度の限界を覚悟して生きなければなりません。

ちまたでは、寿命、寿命といわれますけれど、私の場合には、多少、健康に気を使っても寿命のことはあまり考えないようにしております。

人生を楽しみたいので、できるだけ健康的に長生きできたらなぁと思うだけです。

ありがたいことに現代は、多角的な情報を得ることが可能な時代になっています。

それを形にするためには、やはりお金と心の持ち方でしょう。

生活を支えるのは、健康とお金と心の持ち方と知り合いということになります。

人によっては母親の体内で亡くなることがありますから、人生は魂の所在である心の持ち方、気づきによると思います。

ですから、どのように心を磨いて幸せになっていくかということが人生のテーマにならざるをえないと思います。

そうなると、はちゃめちゃな生活をしている私は何かしら恥ずかしい気がしているのです。

幸福の中味

私たちが、生きていること。

意味ありて存在しているようです。

仕事内容、お金のあるなし、名声、権力など、本来、上下はないのです。

あるのは生命そのものでしょう。

健康は大事です。

でこの世で生きていく上での心的、肉体的要素が必要です。

ただ、目の前にいつかくる「死」というものとつらさを想定したときのことです。

日常は、そんなことは考えませんけど、意外と「死」を意識することが人生にはあるものです。

誰でも死に向かって生活しています。

すると健康とお金が脳裏をよぎります。

日頃は、生きていくうえでお金は重要ですよね。

「おいおい、それができないから、苦労しているのだ」

健康は、食が重要です。

日本では、私の勝手な想像ですが、紀元前から現在の健康食だったのではないかと考えています。

健康は天地に対する感謝するがゆえに食もまた大事にされていたのです。

現在の世界各地では、日本食がもてはやされていますが、玄米と味噌と野菜や海の産物など簡潔なものは、なんのことはない、古代の日本人が常食としていたものです。

ですから、ほとんど癌などはなかったと想像します。

しかし現代の日本人の多くは、洋食や甘いものを好み健康を阻害しているように見えます。

それに現代のさまざまな添加物や電磁波や他の不健康な要素のすべてを除外できる可能性はありません。

それらの不健康な要素を除外していく可能性のあるものは、一つだけあります。

それが免疫力であり、自然治癒力であり、生命力に他なりません。

それを最大限に高くしようとするのが武士道心体法の最初の目的であり、もっと煎じ詰めれば、この手法を使って人生の勝利者になるべく、心を磨き、自分の欠点や悪いところを直して、人々のために生きながら、精神世界を高めていくことこそが、求める目的になるのです。

健康の元は私たちの歴史の知恵の中にあります。

健康と幸せは切れませんよね。

私たちの幸せは、食による体の健康と心による感謝の中にあります。

日本人はよく頭を互いに下げます。

これはお互いにこの世でこの瞬間に互いに出会えている奇跡さと必然さをともに共有しながら生きていること、何かしら助け合い、励まし合い、楽しみ合い、苦しみ合っているかもしれない、その瞬間を「縁」と思う潜在意識があるからだと思います。

ですから、できないときはしょうがありませんが、人生に苦しんでいたとしても他人にできるだけ頭を下げたり、笑顔を向けて優しく接したいと思うのです。

古人がおっしゃるように人生の幸せは陰徳にあると私も思います。

よって、私はあなた自身のためにあなたに潜む可能性と幸せを高めることを考えたいのです。

その可能性は、心の奥に存在しているのです。

東洋医学の「瀉法」と「補法」の新しい視点

( A new perspective on the Eastern medicine’s “syaho” method of eliminating toxins and “hoho” method of replenishing vitality )

東洋医学ではさまざまなバランスを重視します。
「瀉法」と「補法」という考え方があります。

身体の調子が悪いときは、わかりやすく言えば「実」であるという判断の時には邪気がたくさんある状態と考えます。
逆に「虚」であるという判断の時には、正気の不足の状態と考えます。
そのどちらかにバランスが崩れている状態は健康を害している状態とみなしているわけです。
つまりそれらのバランスをとれれば健康になっていくという考え方です。
そのためには、「実」の状態のところにある邪気を取り去るために「その邪気を瀉する必要がある」という判断になります。
一方、「虚」の状態の時には「正気の不足を補う必要がある」という判断になります。
つまり、「瀉」(瀉法といいます)とは余分なものを捨てることです。
「補」(補法といいます)とは、足りないものを補うことです。
気で言えば、「実」の判断のところは気の滞りや邪気があると判断しているので「邪気を取り去る、瀉する方法をすることになり、「虚」の判断のところは、気が足りないと判断し「気を補う、補する方法」をすることになります。
私は、癌患者には「補」の概念を治療に持ち込むべきだろうと考えていました。
癌患者は体が弱っている状態だから、何か補ってあげないと死んでしまうという考えがあったのです。
弱っている患者は可愛そうだという認識がありました。
そんな私は、世界的な免疫学である福田ー安保理論に注目しました。

私は福田医師が生前のとき、先生が癌患者に対する治療を目の前で拝見させていただく機会を得ました。

福田医師の治療は、私にとって衝撃的なものでした。

患者の全身に施す、そのあざやかな素早い「瀉血療法」に私は驚きました。
目の前でズバッと余分なものを切り捨てる武士を見るようでした。
{ 私のいままでの考え方は甘すぎていた }と直感しました。
癌になったのにはそれなりの原因があり、東洋医学的には邪気が充満している状態にあることに私は気がついてはいたものの納得がいかなところがあったのです。
癌患者は体が弱っているという思い込みが私にはありました。
そういう患者には「補」(補法といいます)をすべきだと考えていたのです。
食事で言えば、癌に栄養が取られているので体が弱っていて力がない。
だから不足している栄養をどんどん摂れるようにして力をつけてあげたいという気持ちが、不足分を補うという思い込みになり、癌患者には「補」(補法といいます)をすべきだと考えていたのです。

そして、癌体質になっている癌患者という病体のツボや経絡を扱う療法では、効果はあまりないかもしれないとも考えていました。

このことは、上海大学で東洋医学を学んだ知人にも相談してみたところ、彼も同意見でした。

ところが、そうではないのでした。
そのような私の一方的な思い込み、考え方を福田医師は断ち切ってくれたように感じたのです。
{ ここにきて福田医師の治療を見られて良かった } と私は思いました。
しかし、それでもまだ疑問が私には残っていたのです。
この福田医師の見事な瀉血という瀉法の治療を拝見することができた。
けれども、これにはやはり、どこかに補法もする必要があるのではないかとも感じていたのです。
邪気を取り去ろうとするだけではどうだろうか?と。
もし、「余命宣告を受けた非常に弱っている癌患者であれば、この治療に耐えられるだろうか?」という疑問点がわきました。
やはり、瀉法の中にこの補法の概念を取り入れたほうがいいのではないだろうかと私は考えていたのでした。

「瀉法」と「補法」は、身体に刺激を与えて、その反射を利用する東洋医学の概念ですが、それからのさらなる進展がありませんでした。

しかし、免疫学の福田ー安保理論は、新たな可能性を切り開いたと思います。

ここで重要なのは心と体の連携であり、体の体温を36.5度維持したり、それよりも高くすること。

おそらく37度以上にすることです。

そして弱アルカリの体質にしていくこと。

その上で、誰もまだ気づいていない「瀉法」と「補法」の新しい視点、概念を発掘したと思っています。

それは、医学のさらなる可能性を秘めているのです。

小乗と大乗の視点に秘密があるのです。

色々な哀しみや病気でつらく困っている人にも大きな希望があります。